海霧の朝


 朝、7時24分藤沢駅発鎌倉行の江ノ電に乗る。途中、腰越の駅を出て鎌倉高校前駅に向かうところから、車窓に海が広がるのだが、今朝は海の上は一面の海霧が出ていて、こういう風景は見たことがなかったから驚いた。そこで下車する駅を七里ヶ浜駅に決めて、そうすぐには霧は去らないのだろうが、気が急くままに早足で、国道134号線から海側に張り出すように作られている七里ヶ浜の駐車場に行ってみる。カメラのISO感度設定がいつのまにか、いつものISO AUTO+最高感度設定3200から逸脱して、ISO12800になってしまっていて、最初の20枚程がひどくノイジーな失敗写真になってしまったのがちょっと残念だな。こういうことがあると、全部で500枚も写真を撮っていながら、その20枚に写った写真こそが今日一番に気に入る写真だったのに、という後悔というのか、ポストやバーに跳ね返された幻のシュートみたいに思えてくるのだが、これって自分自身の中にも贔屓目というのかそういう何かを「惜しがる」または「惜しがりたい」という(慰めにもつながるのだろう)気持ちが発生しているってことで、本当のところはそういう設定に失敗したところにばかり(その失敗さえなければ)すごく気に入る写真が集まっているってことはないはずなのに、そう思ってしまうものだ。なにかを「惜しがる」というところから始まることって、自己愛みたいなことの一つなのかもしれない。
 なんて書いているうちに自分がなにを言いたいのかがよく判ってないままこの文章を書き始めているということだけが、判る。いやなに、何を言いたいのかも決めていないまま、だらだらと書くことが考えることになっている。
 この写真はそういうISO設定ミスを修正したあとのもので、ここでは犬が、飼い主(画面左の男性)が投げたボールを飛び上って咥えた瞬間が写っている。要するに決定的瞬間である。決定的瞬間をはずすことで日常のありきたりをつきつけるからこそ、その写真が固有にもたらす物語を具体化させず、見る人個々の物語(個々の記憶)の誘発を促したい、なんて思っていても、それを実践することは案外に難しいし、さらには写真のセレクトにおいてもそれを維持実践することは、撮影に輪を掛けてもっと難しい。その難しさがクリアできずに、こうして決定的瞬間に寄り添った写真を選んでいるのです。

 海霧は、空気の温度が比較的高くて、海の温度が比較的に低いときに発生するそうだ。さっき検索してちょちょいと調べてみた。でも冬の川霧とかは、流れの温度が高くて、空気がきんきんに冷えた朝に起きるんじゃなかったっけ?霧は、空気と海や川の温度に差があれば、大小関係とは関係なく起きるのか?

本日時点のWIKIで「霧」を調べると、どうやら冬の川霧は
『蒸気霧
暖かく湿った空気が冷たい空気と混ざって発生する霧。冬に息が白くなるのと原理は同じ。暖かい水面上に冷たい空気が入り、水面から蒸発がおき、その水蒸気が冷たい空気に冷やされて発生するもので、実際は冷たい空気が暖かい川や湖の上に移動した際にみられる。風呂の湯気も原理は同じで、北海道などの川霧が代表的なもの。』
に相当するようだ。一方、今朝鎌倉高校前や七里ヶ浜で見た海霧は、
『移流霧
暖かく湿った空気が水温の低い海上や陸地に移動し、下から冷やされて霧を発生させるもの。移流とは大気が水平方向に移動することを指す気象用語である。暖流上の空気が移動して、夏の三陸沖から北海道の東海岸などに発生させる海霧などがその代表的なもので、非常に長続きする霧で厚さが600m程度に達することもある。』
に当たるのかもしれない。昨年の6月に北海道のトマムで雲海を見たのだが、あの雲海の原因となっている十勝の海からの霧は、この移流霧ってやつなのか。

 10時半から平塚の実家で用事があり、鎌倉駅前のカフェ・ロンディーノで珈琲を飲んでから、鎌倉駅9時38分発のJRで平塚へ。

 アマゾンのお薦めで出て来たので買ってみたら、とても面白かった漫画です。 

夜とコンクリート

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