雨の一日


 終日の雨予報。近々に発刊予定のニセアカシア5号のための文章を書いたり、写真を作成したりして過ごす。サッカーの試合も二試合観戦する。日本対ザンビアをテレビで、J2のベルマーレカターレはPCでオンデマンド放送で見た。
 先日、電車のなかでiPODをいじっていて、久々にイーグルスベスト盤などを聴いてみた。聴きながら、私はホテルカリフォルニアの次のアルバム以降のイーグルスの活動を、一回ライブに行ったことはあるものの、なにも知らないことにあらためて気付き、それではと、wikiで調べてみた。すると2000年代に入ってから、二枚組のロング・ロード・アウト・オブ・エデンというアルバムが出ていて、口コミを読むと評価も高いことが判った。こんな風に、検索してディスコグラフィーを調べたり、評判を調べたりすることが即刻出来るのは「便利」とも言えるのだが、人をあらゆる場面で幼児化というか退化というのか、考えたり想像したり妄想したりの時間を省くのだから、きっとよくない。よくないと思いながら便利にすがっている。ちちょいと出来ずに、過程を工夫するところから、なにかを学んだり出来ていた筈なのだ。
いや、その便利の先に、今までとは別のところで考えたり想像したり妄想したりの機会がちゃんとあって、その総量のようなことが変わらずにあるのなら、良いのだが。
あまり悲観論者になってもしゃぁないか。年取った偏屈じいさんの兆候。
 それで、TSUTAYAに行ってそのアルバムを借りたのだが、ついでにフリートウッドマックのこれはむかし持っていてよく聴いていたアルバムを借りたのと、ちょうど目の前にウィルコというバンドのコーナーがあったので二枚ほど借りてみた。そしたらこのウィルコってバンドが良かった。あ、イーグルスイーグルスらしくて、新たな発展や挑戦はないのかもしれないが、王道的にらしさを発揮していました。
 それでTSUTAYAにはなかったウィルコのアルバムを、アマゾンの中古でいっちゃん安いあたりから選んで二枚程購入したのが、雨のなか、本日届いた。郵便ポストに雨に濡れないようにビニール袋にアマゾンの封筒がくるまれて入っていたとポストから取ってきた家族のMが言っていた。
 その届いたアルバムを聴きながら、読みかけの本をちょっとだけ読み進む時間もあった。
 数年前にたぶん藤沢の古書店の外のワゴンにあったものを買ったように思う佐野寛著「映し世の写真家たち」という本を、買って数年のあいだ放っておいたのだが、先週くらいからふと読み始めた。1978年にそのときの写真の状況を著者が感じるままに考察したり、そのときに雑誌「流行通信」などで活躍していたファッション系(なんて言葉あるのかな?)の写真家たちのインタビューで構成された本。
『人々がイマジネーションを自在に働かせたような時代があったことを、ぼくは知らない。イマジネーションはいつも、社会的に水路づけられてきた。
 たとえばアッジェの写真などは、十分に開放された写真だと思うが、それすら画家のモチーフという意味づけをされて提示された。そのように、ほとんどの写真が<過去の光景の提示>として、必ずその<過去の光景>が、復元されるべき世界としてセットされ、人々にしめされてきたのだ。
 もしアッジェの写真が、まったく意味づけられずに人々に示されたらどうだったろう。人々はそこに自分が見ようと欲する世界を見る前に、あたかも自由に不慣れな人間が、完全な自由にかえって不安を抱くような感じで、拒絶反応を起こしたかもしれない。そして自分自身のイマジネーションを自ら檻に閉じ込めてしまったのではないか、という気がする。』
とか読むと、それから30年以上経っても、たいして人の写真を見る見方は進歩していない。音楽や小説や映画を聴いたり見たり読んだりすることが「多岐」に亘っていることを周知して容認するような懐の広さが、少しは広がったかもしれないのに対して、ひどく閉鎖的で変化に乏しいような気がしたりするのだった。そうじゃないかもしれないけど。

 上の写真は先週江の島で撮った写真をモニター接写で低解像化して故意に劣化させています。

Sky Blue Sky

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