お花を見に行く


 「お花を見に行く」なんて書くとまだ梅も咲いてない季節なのになんのこっちゃ?と思うだろう。タイトルがよくないですね、写真もタイトルと無関係で。
 東京都美術館で知人も出展している華道の会、誰でもその名前を聞いたことのある流派なんだと思う、その大規模展覧会を見て来たのです。知人のNさんの作品は舟形の竹の花器に、枝ぶりや花の位置を・・・なんてのは当然のことですねいちいち書くまでもなく、木瓜の一枝をすっと生けたものだった。凛としていて、決意のようなものが見えて、一方で寂しさもまとっていた。
 会場を回ると、Nさんのようなマイナスの美を描くようなものがある一方で、新しく艶やかに彩られ艶を持った大きな花器に何種類もの色鮮やかな花を絢爛豪華に生けたものがたくさんあり、それでもそれぞれに個性や違いがあって、なにかの映画祭のレッドカーペットに集ってくる女優さんたちのようにも見えた。そう言うのは、高級レストランとかバーや、何かの式を飾るような使われ方をしそうだ。
 華道の作品を見るなんて初めてのことで、こんな稚拙なコメントしか書けないわけだが、ずっと解説して一緒に回ってくださったこともあり、なかなかに楽しい時間が過ごせました。ありがとう。

 そのあと上野や御徒町や、それから今度は有楽町から新橋あたりまで、カメラをぶらさげて散歩をしたのだった。写真は平日はサラリーマンでいっぱいになるガード下の飲み屋の日曜日の風景です。

 文庫になった沢木耕太郎著「キャパの十字架」を読んだ。以前、NHKテレビの番組でもこの沢木耕太郎の説をベースとしてコンピューターやGPSを駆使してキャパがスペイン戦線で撮影したとされる「倒れる兵士」の写真が撮影された状況を分析している、そういう番組を見た。本を読んでいて、私にはそれに反論するような取り上げられていない別の知識があるわけもなく、沢木類推論しか読んでいないのだから、それが全て正しいとして読んでいる。
 だけど、どこかまだ解明されていない何かがあるような気がする。沢木耕太郎の推理によれば、これは実践ではなく銃撃戦の訓練の日に、兵士に「演技」をしてもらい撮られた写真であり、しかもキャパがライカで撮ったものではなくて相棒だったタローが6×6のブローニーフイルムで撮ったものだというものだ。ゲルタ・タローの使っていたカメラも、単行本以降文庫化までのあいだの分析で、従来言われていたローライではないようだと言う補足も合わせて掲載されている。
 これに対して、なんとなくどこかまだ解明されていないことがあると感じるのは、私だけの感想なのかもしれないけれど、写っている「足を滑らせて転びかけている訓練中の兵士」の顔の表情を見ると、生きている人間が足を滑らせて「おっとっと!」とか「やべえ」とか「うわっ」となっている瞬間の顔に見えなくて、いかにも撃たれてすでに死をまとった顔だと言われた方が納得できるような、言ってしまえば「無表情」に見えるからなのだと思うのだ。
 いや、こんなのはあくまで「そんな感じがする」というだけのことなのだが。