古賀絵里子展 日本の家展


 西巣鴨大正大学内のギャラリーで開催中の古賀絵里子展を観に行く。代表作「浅草善哉」「一山」ともにそれらの作品が話題になっていた当時はあまりじっくりとは見ていなかった。前者は写真雑誌で何枚かを見た程度。後者は2015年か2014年かのKYOTOGRAPHIEの正式プログラムに入っていたが、どこだったかな会場がぽつんと遠くにあって回れなかった。なんとなくだけど、昔ながらのフォトドキュメンタリーの写真家だと思っていた。2016年のKYOTOGRAPHIEで、長江家住宅という古い町屋を会場にして、モノクロームによる古い家族写真と子どもが生まれた自分のプライベートな視点の写真を組み合わせた作品「Tryadhvan」の展示を見た。そのときにこの写真家の真摯な眼差しと写真に投影されている写真家自信の思いにすっかり魅了されたものだった。ちょっとwikiで調べてみたら、結婚する前まではテレビ番組のおんな酒場放浪記に出たりもしていたそうです。すなわち美人さんであり酒飲みなのですね。
 大正大学の展示では「浅草善哉」「一山」が展示してあった。

「浅草善哉」は、今年のKYOTOGRAPHIEで北欧の老夫婦の暮らしぶりを残照のような日々を包むユーモアを見せながらもこの世の中から消えていくその消え方を記録していたハンネ・ファン・デル・ワウデの「Emmy’s World」や、東北の農村で暮らす姉弟を題材にした小栗昌子の「百年のひまわり」などを思い出したし、良い悪いではなく、フォトドキュメンタリーの正統に近い。それが「一山」には写真家が被写体である高野山とのあいだに切り結んでいる私的な関係、その関係による立ち上がった私の視点、そういったプライベートドキュメントの要素が圧倒的になっている。これは私の写真の嗜好によるわけだが、後者の方が好きというか後者の方に興味を覚える。写真家の目の向く先は、ときには川内倫子を想起させるところもあったが、全体としてはもっと優しさに満ちていた。

 地下鉄を乗り継いで竹橋に移動する。国立近代美術館に19日からはじまったばかりの「日本の家〜1945年以降の建築と暮らし」展を観に行く。これ、楽しみに待っていた企画展です。会場の前半は撮影禁止だったが後半からは撮影OKだった。上の写真は篠原一男による「谷川さんの家」の写真の大パネルの一部接写。こんな風に人の顔のところが反転するように天井のライトの反射を持ってくるのは、作品をメモるためのスナップではなく、写真として違うものにしようという姑息な意図が働いてしまっているわけです。

 下の写真のように、会場にはBRUTUSの「居住空間」特集号に取り上げられるような最近の建築家による、言い方が正しいかわからないけれど一般住宅と比較すれば「ぶっ飛んでいる」、展示の章に沿ったコンセプト建築がたくさん取り上げられていて、その図面と模型が展示されているわけだが、そのいくつかには現地で撮影された使われている様子をリアルに伝える動画や、居住人の(建築家ではなく)インタビュー動画がモニターから流れている。これがなかなか面白い。上原通の家(大辻清司の家)は篠原一男による。施主の奥様やご子息が動画に登場する。家そのものではなく家の中に置かれた暮らしの物や、居住者の発言もそうだけれどそれよりその人の雰囲気、そういうのが動画で伝わってくると、模型や写真や図面ではわからないリアルなその建物の在り方もよくわかる。会場では動画は必見ですね。周りの街並みや庭に生える雑草や、木々が風に揺れる音や、行きかう人々。そういう現実の中にその建物があることが、その当たり前がよくわかる。

 有名な中銀カプセルタワーは、工事中の様子や竣工当時に建築家とデザインナーによるトークショーのような記録、そしてそこに暮らす人を想定した紹介動画なども流れていて面白い。過ぎてきた時代のなかで建築家が考えていること、あるいは考えていたこと、はそれが正解だったかどうかというよりいずれもそのコンセプトを語る自信がいいですね。
 展示の冒頭にも1960年の住宅難のころの安価な大量生産向きの安価な小住宅が、そして展示の後半にも町屋の改造や町屋のコンセプトを今風に解釈した新しい町屋などで同じく小住宅が展示されている。いかに小さな住宅で快適性を実現するか、ということはいつでも建築家の良心を刺激するらしい。

 なんとこの「日本の家」展は3時間も観ていた。すっかり疲れてしまい常設展は回らず。図録を買って帰る。