朝の京都

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 月曜の朝8:00前の京都。この上の写真は烏丸×高辻 東入ルと言うあたりですかね、知ったかで京都の言い方を真似てみると。スーツを着てスーツケースを引っ張っている若いサラリーマン男子はこの先の日航ホテルへ入って行きました。例えば、ホテルに泊まっている東京から来た偉いさんと合流して出張に出る・・・とか、そんな感じかな。平日の朝。観光客はほとんど見当たらず、私は観光客だったけど。このまま鴨川まで歩き、高瀬川沿いを上がり、六角通を戻り、六角堂にお参りして、ホテルに戻りました。戻って9:30。10:10頃にチェックアウトし、HOSOOギャラリーでKYOTOGRAPHIEの展示のひとつ「現代日本女性写真家たちの祝祭」から今日の写真展巡りを開始。そのあとKG+セレクトなどなど。

 相変わらずというと失礼かもしれないが、日本の若い写真家の展示は少し前の世代の写真家が「欧米の写真界が言うコンセプト重視」に背を向けたり疑問を呈したりしていたのと裏腹のように、みながみなコンセプトを表に出していて、それも「ファミリーヒストリー派」と「ジェンダーまたは社会的弱者派」と「環境問題提起派」と、それに東日本大震災などの自然災害が含まれたうえで複数の「派」をまたがる場合もある、といった乱暴な分類をでっちあげてしまえばそれに収まりそうだ。もしかすると報道写真の即時性(ニュース性)をいったん放棄するかわりに、時間をかけてそれを掘り下げ告発するという形か。。。それぞれの作家の言い分は「わたしだけのコンセプト」なのだろうけれど、俯瞰して言ってしまえば、またこれかぁ、という見飽きた感が否めないと私は感じてる。いまそこにいるとそんなわけないと思うのかもしれないけれど、例えば荒木さんが大流行していた1990年代には荒木を継げとばかり、荒木チルドレン的写真があふれていたと思う。

 そんななかでも、ちょっと際立つ作品というのがあるもので、それはもうレッドオーシャンと言えるくらいコンセプトが上記分類のなかで類似してせめぎあっている中で、それでもなにかキラリとしたり、もしかすると一般受けできる綺麗さやスマートさを纏っている(言い方を変えるときれいごとに仕立てる力)のかもしれない。ただよく思うのは写真としての質が棄損されずにいることが重要だと感じるのだ。「現代日本女性写真家たちの祝祭」では地蔵ゆかりさんの「ZAIDO」という作品に惹かれたが、それは結局のところ一枚一枚の単写真のレベルで写真的に魅力があるのだろう。地蔵さんはこの作品に関して「写真には写らないものにこそ最も大きな魅力がある」「目には見えないものが想像力を掻き立てる」と書いている。だけどその想像力を掻き立てるスタートは写真に写っているものの写り方が、写っていないものまでを想像させようとする、ということだから、やはり写っているものがスタートなんじゃないだろうか。そして「ZAIDO」はそこに写っているものがまず目をひくのだった。

 商業化されすぎたロックと経済の蜜月に反発してパンクロックが生まれたように、なにかこのコンセプトの定型化がそろそろ破られないものだろうか?と思う。

 下は仏光寺の枝垂桜。下の下は写真展会場にあったカーテン。

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