KYOTOGRAPHIEで京都へ 


 KYOTOGRAPHIE京都国際写真祭に毎年通っている一因として、京都の街の歩き回れる大きさと、設定された写真展示場所の距離感がちょうど良い、なんて言うこともあるのだろうが、写真が展示される会場のなかに通常は一般公開されていない古い建築を使っていることや、そういうギャラリーではない会場の個性に合わせて、写真家が展示方法を工夫していて、額に写真を入れてずらり並べると言う基本的で一般的な展示とは違った面白さがあるのも楽しめる。展示された作品をそのまま複写するように撮ることは禁じられているが、そうでなければ会場内を作品も含めて自由に撮影できる、そうじゃないところもあったかもしれないが、基本はそうなっているのも写真を撮ることが趣味の私には楽しみの一つだ。

 古賀絵里子の「Tryadhvan」というタイトルの展示は京都市指定有形文化財「長江家住宅」が会場だった。配布された会場の資料によれば、
『長江家三代目の大坂屋伊助が、文政5年(1822)に、袋屋町(現下京区船鉾町)の現在地に、35坪の土地家屋を買得、入町し、代々の呉服商を引き継ぎ営んできた。しかしながら、五代目の元治元年(1864)、禁門の変による京都大火で家屋はすべて消失している。 その後、慶応4年(1868)に再建(現北棟主屋)、明治8年(1875)に、その背面裏地に大蔵を移建した。(中略)平成17年(2005)4月1日、長江家住宅の北棟、南棟、離れ座敷、化粧部屋、土蔵2棟の計6棟が、「京都市指定有形文化財」に指定される。(中略)典型的な職住一体の京都室町呉服卸商家のたたずまいを今に遺している。』とある。そこに展示された古賀絵里子の展示の口上は
『仏教の言葉で、過去世・現在世・未来世のことをあわせて「三世」という。サンスクリット語でTryadhvan。現在は過去の結果であり、未来は現在の現れであるという。三世は途切れることなく繋がり、また因果によって固く結ばれている。
 これまでの私の作品には「生と死」という根源的な自然の営みが流れているように思える。つまりそれは自身が意識的か無意識的に、世界を「生と死」という考えのもとで捉え、感じ、写真にしているからであろう。
 (中略)
 今回の作品では、新たな生命を軸に、お寺での生活で心に映ったものを撮ることにした(岬注;古賀の伴侶は僧侶である)。そこには身の周りにあるもの、例えば静物、自然、私自身や家族などが写っている。(後略)
 2015年から2016年にかけての数ヶ月という短い期間だったが、写真として女性として、自身の足元を見つめ直す濃厚な時間が持てたことは幸せであった。』と記されている。
 そして写真は和紙のような紙にプリントされていて、その作品は巻物のように横にずっと続いて行く。それを会場内に立てられた柱から柱へと渡して繋いでいる。説明を読むと時間の流れがコンセプトの一つのようで、それがこの横に流れて続いて行く写真によって表現されているのではないだろうか、などと思う。
 和紙を使った展示が、一般的な写真ギャラリーで合うのかどうかわからない。この長江家住宅という会場だからこそ選ばれたのだろう。作品を照らすスポットライトなど設置されていない。その写真がある場所にどういう光がどの窓から入るか、どこの窓に反射し、それが畳や襖に反射して柔らかく回り込むのか、そんないちいちは多分作家も計算できない。写真を照らすスポットでちゃんと作品を見るようにはできないかわりに、そういう偶然に委ねた、会場と作品の一体化がこの展示の狙いにも合っているのだろう。
(撮った写真をブログやフェイスブックに挙げるのは禁止と言われたとような記憶があるので写真は載せません)

 京都大学正門近くにある招喜庵(重森三玲旧宅主屋部)が会場となったサラ・ムーンの「Time stand still」。
『90年代初頭から2014年にかけて撮影されたヨーロッパ各地の風景をモノクロームで捉え、水平線をイメージして制作された。サラ・ムーンがはじめてプラチナプリントを試みた本作は土佐和紙に印刷され、裏打ちされずに吊るように額装され、作品世界の緻密さをより深いものにしている。』とある。建物の各部屋にこういう単語が正しいかなあ・・・写真がぽつねんと置かれている。何が写っているかとぐっと目を近づけて見る。写真によっては近づいても何が写っているか判らない。謎めいている。あるいは説明を聞いたり本を読むことで「知っている」が、しかし実際にはそれを手にしていないし実物を見たこともない、だからいくら知ったつもりでも謎めいていてこころもとない。ひっそりとした写真なのであった。

 上の写真は京都市美術館別館2階で開催されていたプランクトンの写真やインスタレーションの会場。写真と映像はクリスチャン・サルデによる。ほかに高谷史郎によるインスタレーション坂本龍一によるサウンドがコラボしている。床に埋め込まれたモニターに動画作品が流れている。その床のモニターとモニターの間を鑑賞者は自由に歩き回って見て回れる。それにしてもプランクトンの写真は美しかった。