無音


 会社帰りに乗り換えのターミナル駅までいつもの私鉄を使わずに写真を撮りながら歩いてみる。午後6時前のこと。電車がほぼ直線で走って3キロメートルだから、歩いた距離は4キロメートルくらいだろうか。もう夕方で、風も吹いていて、歩き始めた当初は少し暑いけれど、十分に気持ちが良いと思ったが、最後は汗でぐちょぐちょになった。ビジネスシューズが重くもなって引きずるように歩いていた。
 初めての道や久しぶりの道を適当に歩いていく。途中でまったくの方向音痴になった場合には、スマホで現在地検索をして方向を修正する。私鉄沿線の小さな駅前には、小さな商店街があり、たくさんのチェーンのファストフード店や居酒屋がある。それでも、昔からやっているのだろう、のれんを下げた小さな間口の店もたくさん残っている。線路端の道沿いのうなぎの店はうなぎを焼く煙がいい香り。十人弱の小さな列ができている。その先のタイ料理の店は外に出した小さな丸テーブルに、首にタオルを掛けたおっさん二人が座り、パッタイかなにかを食べながらビールを飲んでいる。立ち飲みの店は早くも満員で、奥のテレビにはバラエティ番組が映っているようだ。若いお姉さんがごくごくビールを飲む。そのジョッキがどんどんと傾く。
 
 帰宅してから夕食後に、BSのNHKをつけたら新日本風土記清水寺界隈だった。清水寺は何回も行ったけれど、舞台から音羽の滝に降りていく道の左側斜面に植えられた森が、土砂崩れのあとに寄付金を募って植えられた桜でできたことなど知らなかった。番組では21歳の次女を突然の病で亡くした老夫婦が、寄付を出し、その娘の名前を託した桜を観に行く場面になる。大きく成長し、山桜の真っ白い花をつけた桜だった。その場面を見てすっかり涙目になってしまった。
 当たり前のことだけれど、どこへ行っても、そこのそこここに人の思いや歴史があるってことだ。そこに紐づけられた何万の何億の思いの一つとして知らないまま、私だけの思いでそこを通り過ぎていく。その私だけの新しい一つが何万か何億に一つ足される。それだけのことなのだ。いがみ合わないための基本は、そこここの全部に誰かの思いがあるっていう当たり前のことを、具体的なことは知りようがなくても覚えているってことなのだ。

 夜のニュース。ポーランド全体主義化傾向のこと。熱中症のこと。荒川水系の貯水量のこと。福島原発3号機の無人ロボットによる核燃料の状況把握のこと。姉妹の殺害事件のこと。
 
 今日歩いた私鉄沿線では、セミの声もしていただろう、幹線道路を渡るときには車の走行音がうるさかっただろう、飲食街では人の話し声がさかんに聞こえただろう。なのに、夜になって思い出しても、無音の風景が思い出されるばかりで何の音も聞こえないのだった。