社会復帰

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新型コロナウイルス感染症の蔓延に伴う緊急事態宣言中、ほとんど写真展に行けなかったので(あるいは行ったとしてもなんとなく緊張してささっと感が否めない感じだったので)先週のKYOTOGRAPHIEは久しぶりに自由に写真展を歩き回れた解放感を味わえた。今日は、東京都写真美術館宮崎学「イマドキの野生生物」と「リバーシブルな未来~日本・オーストラリアの現代写真~」を、昼食後に神宮前のスロープギャラリーで公文健太郎写真展「光の地形」を回った。こういうコロナ禍前の「私の休日の主な過ごし方」がコロナ後出来ずにいても、それほど意識的に切羽詰まってはいなかったし、しょうがないから我慢してましょうのんびりと、という感覚だったけれど、いざこうして出来てみると、いつのまにか気づかないままけっこう追い込まれていたようにも感じるのだった。新しい情報というのか、誰かとの思いがけない会話(今日でいえば公文さんは会場にいらっしゃったのでお話できた)などからなにか刺激を受けることが、その偶然的にインプットされる新しい他からの情報がある頻度で起こる必然が、同時代的に属している・・・それが「今」生きている自分の在り方にいかに直結していたかが認識できるというのか・・・そういう偶然のインプットが一定量発生する必然が、コロナ禍やテレワークではゼロでなくても大幅に縮小される。まぁ、言い訳かもしれないですが、そうするとなんとなく記憶にある昔のことばかり思い出したりしていなかっただろうか。このブログでも昔話が多かったここ数か月です。

写真は京都市疎水記念館に展示されている京都の街の琵琶湖疎水が引かれたころの街のジオラマを山側から見て、浅い深度で撮ったものですが、その「わざわざ山側から撮る」「わざわざ深度を浅くする」ことになにか意図があるわけもなく、写真がこう写るとカッコいいだろうなんてことも考えもせず、じゃあなんでそう撮るのか?いつのまにかこういうのはそう撮るという自分勝手な不文律が自分に出来ていてそれに従っているような・・・これはマンネリというのか。

「今」に参加し続けるに、たまには洋服でも買おうか、と川崎駅ビルのDOORSとSHIPSを見て回る。社会復帰という感じ。