初台へ


 初台にあるオペラシティアートギャラリーへ谷川俊太郎展を見に行く。著名な方々とやりとりした葉書が展示してあった。文学館などで作家を取り上げた企画展でも葉書や手紙の展示をよく見るから特別目新しくはないが、谷川俊太郎のデビュー当時と思われる葉書の相手が、高村光太郎とか三島由紀夫室生犀星もあったっけ?そういう名前を見ると、いま生きている谷川俊太郎に対してあまりにも現代国語の教科書のなかの人物って感じで、そこにむかし交流があったということが、考えてみればぜんぜん不思議ではないのだが、名前を見た瞬間にはびっくりしてしまった。
 自分で撮った写真や、幼少のころからの家族写真や、上記の葉書類や、収集した?物や、作品のレコードや本や、別荘を一年間定点観測したビデオや、最近の散歩の様子を新進気鋭の写真家の川島小鳥が撮ったものや、そういうのが展示されているわけだが、やっぱり掲出してある詩か詩の一部を読むのが楽しい。
 誰かが一緒にいたら、その文章を読んで感想を述べあったりできそうな展示だと思ったが、そんな風にこっそりおしゃべりをしている人はほとんど見あたらず、グループや家族や恋人と来ていても、みな黙々と読んでは感想をうちに秘めて持ち帰っていく感じがしたな。
 最初の部屋はたくさんのモニターを連動させながら、谷川俊太郎だけでなく複数の人の声や音楽を交えて詩を音(朗読とも言えるし、音楽とも言えるし、そのどちらかでもないとも言える)で示している。
 その中の一編が心に引っかかった。

 ここ
 
 どっかに行こうと私が言う
 どこ行こうかとあなたが言う
 ここもいいなと私が言う
 ここでもいいねとあなたが言う
 言っているうちに日が暮れて
 ここがどこかになっていく

写真を撮っていると、同じ場所でも、光や影や色温度や植物の状態や雲や風によるなにかのそよぎや、そういう一つ一つの違いを考えると同じ瞬間は二度とないと感じる。だからまず今この瞬間ここにいるからそこを撮る、なんてカッコ付けて思ったりする。時間のことが書かれた詩を読むと、そんな風に思うことを連想してぐぐっと来たのかな。
 例えば上の写真は、湘南新宿ラインの車窓から撮った藤沢あたりの景色だが、撮れるようでいて、同じ光景は二度と撮れない。
 どこかになっていく「ここ」に一緒にいるあなたは、この詩を書いていたときの谷川俊太郎にとって誰だったのかな、とかふと思う。

 下の写真のPCは谷川俊太郎が詩を推敲していく様子が再現展示されたもの。