限局性激痛 ソフィー・カル展@原美術館

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 品川にある原美術館でソフィー・カルの展示をやっている。品川の原美術館は2020年で閉館が決まっている。昨秋だったかな、ニュースになっていた。理由は、建物が竣工後80年たち老朽化していることなどだったと思う。残念ですねー。何回も行きました。とくに覚えているのは、中庭にスクリーンを立てたトヨダヒトシのスライド・ショー。ウィリアム・エグルストンの写真。野口里佳のロケット・ヒルズの大型プリント。初めて海を見る人の反応を淡々と動画記録して映していた現代作家は誰だったっけ?美術館の中庭をカメラ・オブスキュラで映していた作品もあった。なぜかそのカメラ・オブスキュラの像を見た日は、私は、インフルエンザにかかって発熱していた気がするな。

 以下、ソフィー・カル展のネタバレ含みます。

 ソフィ・カルのいまの展示に関する原美術館のHPに書かれている「案内」には『「限局性激痛」とは、医学用語で身体部位を襲う限局性(狭い範囲)の鋭い痛みや苦しみを意味します。本作は、カル自身の失恋体験による痛みとその治癒を、写真と文章で作品化したものです。人生最悪の日までの出来事を最愛の人への手紙と写真とで綴った第1部と、その不幸話を他人に語り、代わりに相手の最も辛い経験を聞くことで、自身の心の傷を少しずつ癒していく第2部で構成されています。』とある。この失恋体験を失恋後の何日経ったかを表記しながら、誰かに語っていく、それは繰り返し繰り返し同じ失恋のエピソードなのだが、日を追うごとに、具体性を欠いていき、ソフィー自身もその個人の物語としての具体的な絶望が、失恋の一般尺度のなかではありきたりであることに気付いていく。その経過が見るのが面白い。語る量は減っていき、ありきたり、よくあること、という単語が現れ始め、そして布に刺繍で書かれた文字は、布の色に吸収されて痛みが消滅してしまう哀しさと現実を現している。この文章を追うことが鑑賞のだいご味なので、文章を読むために必要な時間が一人一人の鑑賞者には必要で、そのために原美術館二階のギャラリー3に展示されたこの作品(第二部)を見るため並んだ人の列は、階段を下り、踊り場で向きを変えて、一階まで延びている。この美術館がこれほど混んでいるところに行き当たったのは初めてだった。

 一階では、第一部の失恋に至るまでの、失恋後から振り返ると「ばかみたい、私はしゃいじゃって・・・」「こんなことになるなんて知りもせず、幸せそうで・・・」の90日にわたるプライベートなファミリースナップや旅のスナップをベースに、その写真に検閲を思わせる絶望まで×日と言う赤い印が押されている。そしてときどき短い文章添えられている。

 

 私がこうして最新のデジカメで撮った写真を再度接写して一部を切り出し、その画像データをもとにして、フォトショップで加工して、記憶が薄れていく過程の途中のような(と誰かが言ってくださった)写真を「作る」ことは、ソフィー・カルが第二部で示したように、記憶が薄れていき、傷がすぐに回復しようとする人の強さ、を見せられると、その一部のセンチメンタルな断面の提示みたいな柔なことに過ぎないなと思った。ここに載せた写真は、ほんの四か月まえの写真なのに、その四か月前には、まだ冬の前で、(ここに載せた駒ではないもののそこに)写っている人たちは日によってはTシャツ一枚だし、春秋物のカーディガンやパーカーのようなものを羽織っていて過ごしやすい点からすれば「一番いい季節」のなかで幸せそうに写っていた。日本にはっきりと季節があることは、こうして時間が流れて、すでにすぐに記憶が褪せて行っていることの哀しさと美しさをわかりやすくあぶりだすのかもしれないな。時間に対して敏感になり、消えるものと生まれるものの一年ごとの繰り返しを大事に思うのかもしれないな。

 なので、ほんの少しでもいいから、時間を経たあとに写真を見ると、人恋しくなるのではないか。多くのカメラマンが、フイルムカメラの撮影から現像までに存在してしまう待ち時間があることが想像や妄想や期待を生むから、それがその写ったものは変えられないにせよ、選択のときや、次の撮影のときになんらかの力になっていき、デジカメと違ってそこには写真の力がちゃんと宿る、といったことを言う。そうだなと思う。

 

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