東銀座のキヤノンのギャラリーで喰田佳南子「new breath」、恵比寿の東京都写真美術館で「日本の新進作家18記憶は地に沁み、風を越え」、恵比寿のMA2ギャラリーで「藤井保 瀧本幹也 往復書簡 その先へ」、同じく恵比寿の@komagalleryでフジモリメグミ「aroundscape♯06」とはしごする。
「藤井保 瀧本幹也 往復書簡 その先へ」で展示された写真は、2人が写真と短い文章で2019年からやり取りを続けた、すなわち往復書簡から、その文章の一節と写真を展示した写真展で、どの写真も、まぁ無駄なく自然や光や街の表情の「ここを見せたい」ところをもっともストレートに「だから当然こうでしょう」と示されている感じで、素晴らしい。文章の一節から
「仕事では、ついついコントロールして撮ってしまいがちですが、最近は光と風に身を委ねる感覚が気に入っています」
とか
「昔のポラロイドにも、物の記憶があります。その時間、その場所で、そこにしかない光を露光して、現像された物体。」
とか
フジモリさんの写真、晴れた日の住宅街の何気ない「そのあたりの個人の家など」を撮っている。晴れた日にしか撮らないとのこと。なんだかシンパシーっていうの?共感を感じる写真でした。なぜその場所を撮りたくなるのだろう?と聞いてみたかった。
街のありふれた場所(家や路地)は自分の家ではなくとも自分の家だったかもしれない、あるいは自分の家と同レベルの価値という共感の源、があるのだろうか。あるいはその家の人がそういう風に意識的にあるいは無意識のうちにデザインした家や庭の使われていくなかでの「中古になっていく様」のようなことに、ある共通認識されている平凡な「市井」と言う領域から逸脱しない故の安心のなかで、優しい目を注ぐことがまるで友達と会っているように楽しいのだろうか。
こんな想像をする。