コーヒー豆の店

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 茅ヶ崎市荻園の、畑やビニールハウスや家庭菜園や小さな自動車整備工場や、アパートや神社や学校のある辺り、殺風景と言えば殺風景な風景が続く。バス通り沿いにぽつんとあるコーヒー豆の店は、たぶん、瓦の屋根がなんとなくの風情を感じさせるのかな、手前の生垣も。

 『福岡ハカセのモットーも、「調べる。行ってみる。確かめる。また調べる。可能性を考える。実験してみる。失ってしまったものに思いを馳せる。耳をすませる。目を凝らす。風に吹かれる。」』今日、読み終わった福岡伸一著「生命と記憶のパラドクス」を読み終わるのに、薄い文庫本なのに、一週間以上もかかってしまった。そこからの引用です、上記の『』は。行って、確かめて、また調べ、考える。というのはよくビジネス書なんかでも言われる仕事の在り方と同じだろうけれど、失ってしまったものに思いを馳せる、とか、風に吹かれる、とか、エッセイを楽しく読ませるためのサービスがあるかもしれないが、そういうのも並列で書けるのがいいですね。結局、時間的なことを考えるってことが大事だと言うことなのかな。

 今日はNHKスペシャル福島原発廃炉への取り組みに関する最新の状況を見たが、廃炉完了までの道のりを「急がなければならない」理由に、事の重大さを当事者として認識できる世代が三十年かもっとかかるそのスケジュールの完了までの時間内に消えていくことによる何かがあるのではないか?と思いました。大震災と原発事故の被害を直接被った当事者が数十年のうちに消滅し、すると、それを引き継いだ(否応なく引き継がされた)人たちの決意や苦労はより増すのだろうな。周りの理解者も減り、誰も見向きもしなくなる中での作業が延々と続く。いま以上に、たぶん。だいいち、そんな数十年ものあいだに国際社会のなかで日本の国力がどうなっているのか?作業を進める胆力が維持できるのか?とかも心配ですね。

 今朝、この上の写真のコーヒー豆の店の前を車で通過した。そのときは晴れていて、いい風景だった。帰宅して昼過ぎに徒歩で写真を撮りに行ってみました。曇っていて、朝に見た風景の「良さ」が減っている感じがしました。でもその「良さ」がなにだったのか、なぜ曇りの午後にはそれが減ったのか、具体的な理由まで自分の心の中のことなのに言い当てられない。

 

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