皆が立ち止まってスマホで

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神奈川県立近代美術館葉山に

柚木沙弥郎の「鳥獣戯画」と「みえるもののむこう」の同時開催の二つの展示を観に行く。後者は五人の作家によるグループ展。今日のブログのタイトルは、五人の作家のうち写真家の一之瀬ちひろが展示内容に関して記載した文章に書いてあった、写真家が写真とはなにかを考えることになるエピソードのひとつとして例示してあった出来事に関することです。写真家は渋谷の駅前のスクランブル交差点を渡っていたら大勢の人が足を止めて振り向いて空にスマホを向けている。その空には虹が出ていた。普段、写真を撮っているときに、その写真家がそこを撮るに至った気持ちなんか目に見えない。しかし、みなが一斉に虹を撮っているところはその普段は見えない気持ちが垣間見えた瞬間だった。そこから写真家はさらに考察を書いていたと思うが、肝心なそこのところは忘れちゃいました。作品NGでも作家の言葉を書いたプレートだけでも記録(写真を撮る)させてほしい。図録を買えば書いてあるのだろうけれど。この写真家の自作写真集PARIS(一部のみ制作?)は2016年かな?2015かな?の秋にパリで起きたテロ事件の前後にスナップされた写真で作られている。途中白紙のページが一ページだけあってその前がテロ以前、その後がテロ以後のスナップ。そこに町の緊迫感の差を感じられるようでもある、一方で言われなければ差もなく淡々と同じ日が、テロがあってもなくても続いていたようにも見える。後者の場合は人のいきる力の強さのようなことも、それが白紙を挟んでテロ前後のことだと知らされたあとに感じること、だったりする。私の実の父が2001年の9月10日の午前に亡くなった。その翌日にニューヨークの自爆テロ911が起きた。その後の数日か数週間か、死者は世の中の最新の変化や事件を知らされない、と言う当たり前のことが気になったものだ。父の場合、歴史に残る大惨事が亡くなった翌日に起きたわけだが、一方で多くのことは死んだあとにも変わらず繰り返されて、淡々と日常が続く、と言う割合の方がずっと高いだろう。父が亡くなったときにそんなことを思ったのを思い出した。他にもカルティエブレッソンの決定的瞬間と訳されたサン・ラザール駅裏の写真は、いまちゃんと訳すとそこに決定的といったある瞬間だけに現れることを言ってはおらず、もっと当たり前に目の前を記録するようなタイトルだと言うことも説明され、そこにブレッソンの本の書影とパリのテロの翌朝の新聞に載った写真が並べて展示されていた。肝心の、そのタイトルをどう訳すべきかのところを忘れてしまった。情けない。でいま調べたら、変わり行くイメージ、うつろうイメージ、といった意味らしい。フランス原本。アメリカ版はそれがまさに決定的瞬間となったらしい。すなわちThe Decisive Moment。写真とはなにか?と言うより記録された写真を印刷や画面やプリントで見る鑑賞者が写真を見ると言う行為はなにか?といったことが思索されている。それがわかりやすく展示されていて面白かった。ほかの出展者の作品も面白かったです。

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