シャベル

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北関東U市に出張で行ってきた。東北新幹線から見える埼玉県や栃木県の桜は満開だ。小さな家が立て込んだ中の桜、校庭の桜、川沿いの桜、工業団地のグリーンベルトの桜。しかし写真を撮るわけでもない。きれいだな、と当たり前のことを思うだけだ。

それで先日撮った写真を見返してこの写真を選びました。

子供のころ、昭和40年前後、生ごみは庭に掘った穴に埋めていたから、こういったシャベルは身近にあったな。父がすててこにランニングシャツ姿で汗びしょびしょになりながらそんな穴を掘っていた光景を覚えている。父と私は、私自身としてはそんなに似ていないと思うが、親戚の中には、似てるという人もいる。自分でときどき、ぎょっとするのは、あまり親しくない人と差しさわりのない話をしていて、ふとなにかの話題でちょっとだけ笑った、その笑い声が自分から発している声なのに、父にそっくりでびっくりしてしまうのだ。

父がオリンパス35SのF2.8を買ったのはたぶん昭和30年代で、そのカメラがもうだいぶ傷んできて像も甘くなり、父はアサヒペンタックスSPを買い(その前にキヤノンデミEE17を挟んだかもしれない)それを機にオリンパスは私のものになった。おさがりというわけだ。昭和40年くらいのことじゃないかな。

ネオパンSSを入れたとき晴れていればシャッター速度は1/250秒で絞りはF8と教わった。フイルムケースにも書いてあった。それでどんな写真を撮ったのかな。小6の林間学校で像が甘くなったそのオリンパスで撮った写真にはぼけぼけのともだちが写っていたがいまでもその写真のことは覚えていて、最初からぼけぼけの写真の記憶はもっとぼやけているのかもしれない。もし小6の林間学校の写真がいまのデジカメのように高解像度できちんとカラーで写っていて、しかもクラウドのどこかからいつだってぴかぴかのまま降りてきて目の前のモニターに表示されるとしたら、それは同じ「写真」でも別物だな。すなわち私がそれを見て起きる感情がぜんぜん違うと思う。前者は記憶に寄り添って記憶のようにぼけている。後者はあやふやな記憶をこれでもか!と修復してくれる。

困ったものだ・・・と思う。どっちも。