富士山を見れば写真を撮りたくなる

 コロナ前、ふた月に一度は、国内や海外に飛行機で出張していた。今日は約一年振りだろうか飛行機に搭乗した。西へ向かう飛行機から雲を頂上に載せた富士山が見えた。富士山の横を過ぎたあとも、ずっと外を見ていた。

 2歳から18歳まで住んでいた神奈川県平塚市からも富士山は見えた。父が勤めていた総合病院に4階の新病棟が出来たのが、私が小学生の四年とか五年の頃だろうか。その屋上からも富士山がよく見えた。ある夕方、父が買ったばかりの135mmの望遠レンズをアサヒペンタックスSPに取り付けて病棟の屋上に行って富士山を撮ってみるという。私も付いて行って父が撮っているのを横で見ていた。ファインダーものぞいただろうか。出来上がった写真のことはよく覚えている。淡いオレンジ色の夕方の空をバックにシルエットになった富士山の山容が、シンメトリーで捉えられていた。シンプルで美しい富士山の形を写真に撮るには、結局はこれだろう。父がそう言ったのか、私がそう思ったのかはわからないが、そんな風にずっと思っていた。

 でも今日撮ったこの写真は中央より少しだけ右に山頂を置いた。画面左の斜面の雪と、右側(西側)が影になって黒くなっている、このことから、この写真ではそう写したのだが、そんなことは些細なことで、どうでもいい。そう、どうでもいい。富士山があって、富士山を見つけて、おっ!富士山だと思い、当然のように写真を撮る。日本人だからかもしれないが、日本人でなくても、おっ!と思うならば、富士山がやはり飛びぬけて美しいということだろうな。すなわち当然のように写真を撮りたくなるところが富士山なのだ。