なにかを待っている気持ち

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 新型コロナウイルスの終息を待っている、とか、いつか素敵な人と出会うのを待っている、など。待っているのはいつも、いまより安心できる状況なのかな。あるいは今よりこう変わってほしいという新しい望んでいる状況か。いや、そんなことはないですね。いやいや「待っている」ってこともあるだろうから。それより「ハラハラしながら待っている」「心配しながら待っている」の方がよほど多いかもですね。でもいまはすぐに、待たずに、結果が明かされるのかもしれないですね。紙の手紙を書いて投函して、そろそろ相手のところに着いただろうか、と指降り数えて、今頃読んでいるかな?と思い。ああ書けばよかったこう書けばよかったと反省し、それでも期待して。もしすぐに返信を書いてくれていると、あと三日すれば手紙が届くだろう・・・。そして大抵の場合、そんなに最高効率で返信など届かないのだった、むかし。いつ頃からか、2000年くらいもっと前かな、ラブソングの歌詞に「電話」と「(書く)手紙」が登場しなくなった。ユーミンの世界でも青いエアメールがポストに落ちていたし、よしだたくろうの世界では忘れたあなたに忘れられない僕が、河原の土手を走ったことを思い出しながら、手紙を書いた。さだまさしの世界では公衆電話に最後のコインが落ちて、スローモーションで思い出がフラッシュバックした。電話もね、お話し中だとつながるまで待たなければならなかったし、予約制順番待ちではなかったから、また当たるも八卦的に時間をおいてダイアルを回す。でもね、この待っている時間に不安や期待を抱きながら考えていたことが大事だったのかもしれないですね。

しかし、こんな年寄り臭いことを平気で書いているけれど、そうであれば今のひとは「待っていた」世代よりも幸せかと言えばそうでもないんじゃないか?そういう暮らしの標準の変化により待つことが減り、便利と言う単語で標準がそちらが良いという大衆指示のもと動いて行っても、みながそちらが良いと思ったときに期待したかもしれない幸せとは関係なかったかもしれないですね。待たなくてよくても、あるいは待つ時間の絶対値が短いだけで待つことの辛さやどきどき感は同じだろうし。ひとびとの苦しさが軽減したとは思えない。若い人たちもけっこう悩み抱えてつらそうだものね。

そう言えば、鷲田清一著「待つということ」と言う本を二回読んだ五年くらい前と二年くらい前。なのによく内容を覚えていないのです。本棚にも見つからないや。

赤信号で止められて、青になるのを待っている。雨が降り出した。交差点を曲がっていく車や反対車線で同じように青を待っている車のうえに、フクロダケのような形の白い光が写っている。ちょっと不思議。

もう一回、待つことについて。将来こうなっていて欲しいと今思いながら待っているそのときの状況が、いざその待っている時間が過ぎたそのときになった将来に同じようにその状況を欲しているかどうかはわからない。そのことも含めて未来は不安定で、不安定だからこそ、それが時間と言うことだし生きているってことなんだろう。そのときに欲していることが変わってしまっていたら、それまでだったってことなのか。

わっ、なんだか青臭いこと書いてしまいました。待ちましょう。

コロナ終息待ちましょう。