記憶を呼ぶきっかけとなる写真

 大きなイベントスペースのある建物のガラスの向こうに西日がさし込んで、並んだ銀色の椅子が輝いていた。この椅子に順番待ちの人たちが隙間なく座る機会もあったのだろうか、あるいは、この先、あるのだろうか?七年か八年前に、空港で搭乗のための手続きを当時の上司と一緒に待っているときに、とある話になって、そこで決まったことが、その後のけっこう大きな転機になるようなことがあったものだ。よく大事なことは煙草部屋で決まる、とか言うけれど、いまの時代は煙草部屋もなくなりつつある。あるいは、ゴルフ場で決まるとも言うが、それは今もそうなのだろうか?ゴルフをやる人もなんとなく減ってきた気もしないでもない。私は煙草も吸わないし、ゴルフもやらないし、だから上司も扱いかねていて、面倒くさいなこいつは・・・と日頃思っているなかの千載一遇のチャンスが空港だった・・・のかもしれない。

 以下、また写真に関してごちゃごちゃ書いていますが、くだらないので読む価値はないですね(笑)

 この写真、写真としてはイマイチですね。一つの椅子に真っ赤な林檎が置かれているとか、ガラスに張り付くようにこちらを見ている子犬がいるとか、なんかアクセントが欲しい・・・とか、これが写真コンテストだとそんな風に選者の先生に言われるんだろう。そんなこと言われても林檎もなかったし子犬もいなかったんだから、仕方がないじゃん、と思うわけだが、だとすれば、仮にコンテストだとすれば、この写真で応募するのではなく、もっと「コンテストで上位に来るような」写真を撮るようにさらに歩き回って、更にきょろきょろして、更に枚数を重ねるしかない。となるとこれは「ねばること」あるいは「時間を掛けること」であって、釣果がない日にどれだけ粘るか?という釣りのようだ。いざそういう場所を見つけたときにちゃんと意図した写真に写るようにテクニックも必要で、それも粘った末に、やっと掛かった魚を釣り落さないようなテクニックともいえる。

 釣りにも当然のこと名人とずぶの素人がいる。しかもビギナーズ・ラックもあるが、総じて回数を重ねれば名人の釣果が圧倒的に勝る。そうか、スナップ写真というものは釣りと似ているんだな。

 だけど、コンテストに上位に来る写真だけが「いい」ってわけじゃない。もしかしたら、林檎もなく子犬もいなくて、だからコンテスト的には選ばれない写真の方が、かえって誰かのなにかの記憶に刺さる可能性もある、かもしれない。例えば「虚しさ」や「淋しさ」という感情はなにもない方が起きるのかもしれない。だからコンテスト的尺度を取っ払ってしまえば、なにが写真の力かわからないですね。上に書いたような、私の個人的な空港での記憶は、もし林檎や子犬がいたら、写真そのものに惹かれて満足して、いいでしょ!こんなの撮れちゃった、すごいでしょ!となる一方で、思い出さないで終わる。釣りも釣果がないときの釣り人は釣果がなくても釣り糸を垂れていたというその時間に思索したことが大事かもしれない。そうかこれは第三者になにかを発信するとか成果の評価を委ねるということでないのであれば、その価値の尺度はまちまちであるということなんだな。でももっと拡大して考えると、写真を撮りながら歩いていることの価値は写真という成果ではなく、写真なんかどうでもよく、歩いているときになにかを考えていたというそっちにある、というようにもなって行く・・・

 屁理屈でした・・・(笑)