しばらく

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先週の金曜日から日曜日まで、私にとってはたぶん55年ぶりくらいかな、病院に入っていたのでしばらくブログの更新が出来ませんでした。その後も含めておよそ九日間ほとんど外を歩いていないし、当然室内でも運動とか体操はしていない。九日間そういう風に過ごすと、それだけで筋肉は落ちるのかな?けっこう休日には一万歩は優に、多ければ二万歩近くウォーキングをするのが(正しくはウォーキングが目的ではなくスナップ写真散歩の結果がそういう歩数なのだけど)同じように歩くことは出来なくなったりしているのかな。なので写真も撮らなかったこの一週間でした。せいぜい、テレワークの途中に自室のPCテーブルで食べた、ういろう最中の写真を接写したくらいだった。ういろう最中は会社で旅帰りの方からいただいたものです。私は18歳から22歳まで名古屋で暮らしていた。下宿の部屋にはアンテナが折れた誰かからもらったモノクロの小さなテレビがあってノイズの彼方に画像が映るような代物だったが、妙に覚えているのは、その1975年から79年のあいだのいつの日かに、アメリカの建国何百年だかの記念式典の日があって、自由の女神の付近の海(川?)をたくさんの船が行きかっているその様子をヘリコプターから撮影した画面だったりする。そのテレビかはたまたラジオから流れていたのか、名古屋に暮らしていると、大須ういろうと青柳ういろうの短いCMソングをいつの間にか覚えてしまうのだった。思い出話でした。

自室の本棚には写真集がいつのまにかたくさん並んでます。その本棚がすぐ左にある位置に座ってPCに向かっていると、そのすぐ左のあたりの棚の高さのところに並んでいる写真集を手にすることが多くなる。ご近所さんにはしょっちゅう会うようなことで、座っている位置から手が届かない高い棚とか、同じ本棚でも向こうの方とか後ろの方とか(本棚は壁一面に3m×3mくらいにどかんとあるのです。数年前にリフォームしたときに作ってもらった)歩いて行かないと引き出せない本は「ご近所さん」ではないから引き出す機会が少ない。人間はものぐさです。で、座ったまますぐ横にあるのがこれも好きな本をそこに持ってきたわけではなくて、ほんとたまたまそこにあるのを特に位置を入れ替えたりしないんだけど「マイ・ロスト・アメリカ/中野正貴」「ラジオのように/吉野英理香」「井上安治生誕150年記念絵師たちの視線/茅ケ崎市美術館」「失語症/加藤俊樹」「島について/林田摂子」「森をさがす/林田摂子」「かんながら/須田一政」「この星/野口里佳」「パスタイム・パラダイス/長島有里枝」「さよならを教えて/藤岡亜弥」などだった(いまそこを確認しながら書いた)。と、こんなことを書いて開陳する意味はぜんぜんないのだけれど、一昨日あたり、このすぐ横から四段上、立ち上がって背を伸ばすと届くあたりにあった「4区/森山大道」という写真集にふと目が留まったので、よっこいしょと立ち上がり手にしてみた。これは藤沢駅近くの古書店でみつけて、どうしようかなぁまぁ買っておこうか・・・と買ってきて、なんとなく蔵書になったことに安心してたいして捲ってもいない写真集だろう。買ったことで安心してろくに中身を見ないというのは最悪ですね、と思うがやりがち。美術館でその作品の解説を読んで、解説読んでいる時間の方がよほど長くて、ろくに肝心の作品を見ていないまま次の解説に行ってしまうような。

「4区」は90年代後半に中央線沿線の駅の周りの商店街や歓楽街で撮られた昼間のモノクロスナップの写真集。カメラの性能のせいなのか写真のなかの明るい光の部分から光が染み出しているように見える。もしかしたらこの光の染み出しは時が経つにつれてどんどん広がって、浸食して、この写真集はあと十年二十年経つとただの真っ白な漂白したページに変わってしまうのではないか、などと思いつく。そう思わせるなにかが写真の力なのかもしれない。光の染み出しって、そう書いたけれど、ハレーションですね、すなわち。するとこの正方形の写真を撮ったのは例えば高性能になったⅣ型より以前のパールだったり(パールはセミ版だから違いますね)、いやいや、もっと古いころのローライコードだったり、いろいろと想像がたくましくなる。あるいはポラロイドってこともあるんだろうか?そして、そういういくつかの候補カメラが浮かぶと、それを手にしている写真家が浮かぶ。まぁ森山大道の写真を撮っているところの動画は特集されたテレビ番組などで何度か見てしまっているから、どうしてもそこで見た映像に縛られてしまうが、黒っぽいロングコートの裾を速足で歩く足にまとわりつかせながらふと視線のたどった先に気になる光景があると立ち止まりカサッと小さな音のするシャッターを押す。するとなんだか季節と時刻ががらがらポンという感じでごちゃまぜになってくるようで、その不思議な感覚は迷路という単語に行きつくだろう。バーやスナックの看板に書かれた店名の言葉は、物語のかけらだろうし、写真の中の捨てられたポスターの女優のきれいな目はそれをもってしても時を止められないだろう。

それから二日経った今日です。ブログを読んでいただいている方が何人くらいいるのか私はわからない。会社の仲間には基本、このブログは教えていない。日ごろ会っている知人友人でこのブログを知っている人は数人だけ。それでもほぼ三日と開けずに記事をアップしてきたから、なんとなくこうして十日以上も開けてしまうことに焦りが生じる。それで今朝、古い写真を少し見直して、この切手の写真を見つけました。でもこれだって忘れているだけで実はこのブログの何年か前に同じ写真を使っているかもしれない。確認していないだけです。近距離になると解像度が落ちてきてソフトに写るコンデジで、届いた小包(なんて単語は死語かな?)に貼ってあった切手を撮ったものと思われるが誰から届いたなにの荷物かなんてもう覚えていないです。

最近、そんなわけで部屋にいるからこそ読書量が増えています。ときどき気になった文章を控えたりしています。「喜びと哀しみの間に垣根はありません」(あとは一枚、切手を貼るだけP86)

写真を見返していると、写真データについている日付を見ながら、あぁこんなことをして過ごした休日は××年の×月のことだったんだ、とわかり、写真を見ていると写真に写っていないその日のことがわかることもある。上の切手の写真はあまりにも情報がないからそういう記憶の入り口にはまったくなれないけれど。

 

4区―森山大道写真集 (ワイズ出版写真叢書)
 

 

 

あとは切手を、一枚貼るだけ (単行本)

あとは切手を、一枚貼るだけ (単行本)