昨日は晴れていて

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今日28日の日曜日は雨模様で、肌寒い。昨日は昨日のブログに書いたように茅ケ崎市美術館に寄ったあとに、茅ケ崎市の氷室椿園まで歩いてみた。そしてひとしきり椿の花を撮るのに夢中になる。夢中になっても、では撮った写真をどうするのかと言えば、こうしてブログに載せるのに使うだけである。そう考えると、撮ったものが大事な結果=成果と思い込んでいるが、実はそんなことはなくて、撮っているときに夢中になっている状態がこの行為にとって意味のある事なのかもしれない。むかしフイルム装填を誤ったがゆえに撮っているつもりが撮っていなかった写真を悔しいと思うか、そういう失敗があったほうが、その悔しさゆえに撮ったはずの場面を覚えていて、その覚えている強度が強い「撮れなかった写真」の方が写真の強度としては上なのではないか、とか考えたことがあったと思う。椿の花は木によって満開だったり、もう盛りを過ぎていたり、これからが花のピークだったりと様々だ。椿は葉がつやつやしていて晴れている日には葉が輝くのが美しい。でもやはり幹や枝の作るかたちが私には面白い。

帰り道にフラワー・コーヒー・ロースターに寄って、コスタリカのホットコーヒーを店内に座って飲む。飲んで、出て、歩いて帰る。コーヒーはほんの15分もかからないくらいの間、飲み終えるまでに味が変化するのだった。最後がいちばん味が濃くて酸味が強まった。最初はさわやかにはじまった。どの段階の味も面白い。なんでタリーズとかドトールとかスタバのコーヒーは最初から最後までこんな風に劇的な味の変化がないのだろうか。いや、そっちが普通で、なんでこういうコーヒーロースターで飲むコーヒーは七変化するのだろう、味が。通常は高価になればなるほどアコースティックギターの響きは複雑な共鳴音が絡みあって独自の音を作る、と聞いたことがある。もしかしたらある種の日本酒も、純米吟醸無濾過生酒みたいなのはそんな風かもしれない。

古い写真レンズもそうかもしれない。

何日か前のブログに藤本涼という写真家(なのかもっと別の単語が適しているのか?)の「クラウドフォーカスの行方」という写真集を買ったということを書きました。その人の写真、その写真集はいくつかのシリーズのカタログ的な側面もあるようだが、そのなかのLive on Airというシリーズは、どうやってその作品を作ったのかは不明だけれど、写真の空やあるいは手前のこの場の持つ空間とおぼしき場所に、霧のような煙のようなもやもやとしたものが置かれている(あるいは写されている)。それが、実風景を眺めながら撮影者(表現者)が思うところへとこの光景に私の思いを込めて、あること(感情や思い)を表出させようと、その表出させたいことが伝えたいことであり、そういうコンセプチュアルな作業なのか、もっと(心の動きに)原始的に止むに止まれずこうしたいという表現なのかはわからないけれど、その雲や霧のようなもやもやしたものは、不穏さと危うさと、やりすごしたい怖さ、などを感じるものの、写真作品全体としては肯定的に、理由はわからないけど結論だけ「そうだよね!」と肯定したくなるような力を持っている。

純粋に一つの味ではなくコーヒー、共鳴音が複雑に絡み合ったギターの音色、舌に載せた最初に感じた味が飲み込むまでのあいだに変化していくお酒、独特の収差により写りを選んだ絞り値によって変えていくオールドレンズ。

もしかしたら、ちょっと立ち位置や高さを変えるだけで見え方ががらりと変わってくる椿の木のたくさん植えられた庭。

庭・・・。そうかこういうことは制御不可能にそこここにたくさんあって、それがときには面倒くさいことであり、でもそれが大事なことなのだろうし、それが楽しめるようなことが「鑑賞の極意」のようなことなのかな。かもしれない。

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