日が傾く

f:id:misaki-taku:20210423195518j:plain

十年前に撮っていた写真と、今撮っている写真と、なにか変わっただろうか。なにが変わって、なにが変わらないのだろう。街を歩いていてどこにカメラを向けるか、それを決定している無意識的な判断の基準は変化しているのか。例えばこんな写真(上の写真)を私は今日、撮った。2005年、最初の写真個展「流星」をやったときにも、どこかの建物の柱に日が当たっている写真を選んでいた。(正確には通っていた須田一政写真塾で須田先生がセレクトしてくれた中に選ばれていたから写真展に展示する30枚弱の1枚になった。)写真はたいして変わっていない感じがするが、撮る枚数はずいぶん減ってしまった。2005年前後、コンデジなるものをはじめて手にして、いくらでも枚数を撮れて、小さくて、その場で撮った写真を確認することも出来て(これはいまではもうやらなくなった)、それはある意味革命的で、すると、どこでも撮れる、どこでも撮りたいものがある、と思ったものだった(のではないか)。撮りたいところが、というか自分が撮りたいと思う場所を見つける回数が減っている感じがするが、それは見つけ出す能力、というか、ここを撮りたいと思う動機となるものの「見方」の多様性が減っているのかもしれない。もっと違うのは枚数だけではなく、気に入る写真が発生する確率のようなこともぐぐっと減っていることだろう。撮る場所の「典型」の拡大がなくなったなかで飽きちゃって撮らなくなった典型があるのかもしれないし、前の日のブログにも書いたように街が変わって、私が変わらない、それにより相性が悪くなったのか。

本屋に行きました。文庫本を三冊買いました。買ってきたうちの一冊の裏表紙に書かれている紹介文に「大切なものは、些細なことで壊れてしまう」と書いてある。些細なことが誤解や勘違いや思い込みだったりすると悲しいですね。だから物語はそういうことを使って人をはらはらさせるのか。