撮る理由

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写真は先日1/15かな、立石海岸近くの海に近い住宅街の細い路地を歩いていたときに撮ったたぶんいまは空室になっているアパートの入り口を撮ったもの。もしかしたら平日は横浜や東京に住んでいる人が週末だけ過ごす、別荘というほどではないものの、そういうアパートかもしれない。このブラインドが下がっている紫のガラスの窓の向こうはもうすぐに砂浜だ。空室なのでドアにチラシが挟まっているし、車庫には枯葉が溜まりやはりチラシだろうか、紙が数枚落ちている。こういう風に文章で写真を説明しているとこの写真はどっちかと言うと殺伐としているとか美しくはないとか、もっと言えば、つまらないな、なんでこんな場所を撮ろうと思うんだろう?と言う写真なのかもしれない。では私が撮るときに、そんな風なことを感じているかと言えば、ぜんぜんそうではないのです。殺伐とも思わないし、美しくないとも思わず、むしろその逆のような感じを抱いているんだと思う。でもじゃあそれがどういうことか文章で(言葉で)説明しなさいと言われると、途端にわからなくなる。こうしてドアや壁の角やそういうもので作られる縦線が画面を区切っているという幾何学的な感じがまず好きなんだろう。なんで?と問われるとこれまたわからないのだが。それからやはり紫の光がきれいだと思うし、ブラインドが降りていてわからないが、その向こうから光が差し込んでいるわけで、なにか期待のようなことを思わせるのかも・・・いやー、いかにも言葉を取ってつけてる感じのこと書いちゃっているなぁ。でもまあ、この紫がきれいだということが撮りたい気持ちに大きく関与していることは間違いない。それからドアの取っ手の金色もいいなと思う。

ところでこの写真には写真を撮る私自身が紫の部分に写りこんでいます。APS-Cサイズセンサーのカメラの背面液晶を跳ね上げて、ウエストレベルファインダーのようにして、縦横が傾かないように液晶に出ている水平垂直のインジケーターを見ている。そういう風にミラーレスカメラを保持している姿は、あのエルスケンの鏡に映った自写像の写真を思い出す。これは自意識過剰でしたね。エルスケンの写真では写真家はもっと足を開いて立っている。