無題

f:id:misaki-taku:20220316221636j:plain

 コロナ禍になり、人出が減って、外出している人たちもみなマスクをしていて、なんとなく他人との境界の壁を高くして、仲間といたとしても罪悪感のような気分を抱えてそそくさと早めに切り上げる、そんなことが街にただよう「雰囲気」のようなことを変えているかどうかなんて、それが日常になってそういうなかでも暮らしていて、なんとかなってるじゃん、などとたかをくくったような気持ちになるけれど、実はコロナ禍以前とは全然違っていて、街は、特に一気に春になっていくこの頃の街は、なんと華やいで和気あいあいと楽し気で、輝いていたことだろうか。ということを自分がコロナ禍以前に撮ったまま、どこにも使わずただHDDのフォルダーに入っていた画像を見直すと、ひしひしと感じる。そこに写っている、快晴の三月四月五月は、むかしの西洋の詩人が春は嫌いだと詩にしたくらいに生命力が漂っていて、それを照り返すからか、その頃の快晴の光は、例えば昨日や今日の快晴の光と、物理量、照度とかそういうのは同じなのかもしれないけれど、それでも光の強さが違っていて、コロナ禍以降は紗がかかったようだ。そんなことを写真を見ていて気付かされた。この写真は2015年の4月の京都です。それで私は、嫌いではないから、あの頃(コロナ禍前)のように光をますます照り返すような春の日を過ごすというより「作りたい」と思う。

 この写真には実はシルエットになって友人が二人、写っています。この写真を含む、この日の写真を撮った順番に見ていくと、その日辿った場所や道がわかり、食べたものがわかる。だけど何を話していたのだろうか。話していたことがなにひとつ思い出せない。2021年の秋に京都に行ったときにその前を通ったら、この日の夜に行った三条大橋近くの古い居酒屋は、見間違いがなければもうなくなっていた。その古い居酒屋で熱燗を飲みながら私たちが話していた言葉はどこへ行ったんだろう。

 いろんなことはちゃんと覚えていた方がいいのだろうか。具体的なことが消えて、でもそのときの「雰囲気」のようなことが記憶されていれば十分なのだろうか?そのように記憶が変化するのが、それは急峻な山が時間のなかで丸くなっていくように、恒星が巨大化して爆発して矮星になるように、当たり前の「記憶の一生」を辿るのだとすれば、写真や書き記した文章は、それに逆らいたいという人の欲望が科学に置き換えられて生み出していったことなのだろう。

 膨大な記憶が集合知のようになって望んでいることは、とっくの昔から「平和な暮らし」であって、戦争とは国境で区切った国という単位のあいだで平和や幸福の絶対値を比較的上位にもたらすための競争の軋轢から起こるのだとするとひどく矛盾を感じるし、そういうことを決定しているひと握りの人たちは癌細胞みたいなものなのだろうか。その癌細胞にも、恋人や友人や家族や朋友やすれ違っただけだけど知っている人がいて、人は知ることで愛が生まれるものなのに、なぜこうなるのか。戦争で死んだり負傷したりするひとりひとりの人生に思いを馳せることが出来ないのは、そのひとりひとりのことを知らないからなのか。この星には何十億の人が生きているのに、ひとりの人がなにを決めてどれだけの命をほんろうしてよいというのか。

 写真を見返し、文章を読み返そう。