なにも思い出せない季節

 夏休みの思い出はいろいろとある。花火をしたとかどこぞに旅行に行ったとか・・・そのとき誰と一緒でどんな話をしたとか、も。もっと普遍的な「感覚」としての思い出。夏休みの途中ではあっても、8/10を過ぎて、あるいはお盆が過ぎて、あるいは高校野球の決勝が終わった、そんなある日、どこかに行くために乗換駅のホームに降り立った瞬間に「あ、夏が終わる」と思って急に悲しみと焦燥が生まれたこと。あれは、日没がちょっと早まって来たことを敏感に感じ取ったのか、それとも同じじりじりと焼き付けるような陽射しなのにそこにわずかな倦むような気分を感じたのか。あるいは、そよ風を受けた髪や頬に当たるときに少しだけ湿度が下がった「さわやかさ」を測っていたのか。

 あるいは冬休みは、なんといっても大晦日に、紅白歌合戦のテレビがついていて暖房装置で居心地がよく暖かい部屋から暗く寒い自室に一人で戻って、寒いなかオイルヒーターのスイッチを押した直後に、オイルヒーターの匂いとともに感じる「あ、真冬・・・」。そしてこれは、悲しみと焦燥ではなく、達観とわずかな期待があった。

 だけれども春休みはまるですっぽり記憶から抜けていて、どの春もなかったかのように思える。

 それでも一つ、思い出したこと。

 幼稚園児か小学校の低学年の頃、家は総合病院の社宅の木造平屋の長屋にあった。父はその病院に勤めていた。ある春の日、とても生暖かい強い風が吹いていた。冬や早春に、平均よりもとても気温が高くなった風の強い日が、何日かだけある。その風に包まれると、ちょっと気分は「なんでもいいから、迷走でもいいから、歩き回りたい」といった、今から思うとそんなような感覚だったかもしれない。それで家の敷地を出て、総合病院の敷地内ではあったけど、ひとりで歩くのは初めての、あちらこちらを歩き回った。そのときに桜が満開だったという映像の記憶がかすかにある。桜の老木が五本か六本並んでいる、看護婦養成学校の宿舎棟の裏側、ブロック塀のすぐ手前。根っこが盛り上がっている。その盛り上がりのコブを越えながら歩く。誰も歩かないような細い路だ。そのときに、子供は花のいちいちなどに興味があまり沸かないのではないかと思うのだが、ただそのときには「桜ってきれいだな」と確かに思ったことがある。それをよく覚えている。あれははじめて一人で(親から離れて)自宅という囲いからひとつだけ大きな外側の囲いだった父の勤める病院の敷地内へ踏み出した日だったのかもしれない。桜の花はきれいで、でも枝振りはグロテスクで、すこし緊張して歩いていた。風に花びらが舞っていた。やはり春とは新しいどこかやなにかに向かう季節ということかしら。どんなにささやかでも。

 春になるとSFを読んでみたくなったりもするが、それよりなにより、ふきのとうやタラの芽の天ぷらを食べたいと、いまはそう思う。