強風

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 風が吹いている。南からの風。波打ち際から砂浜を挟み、砂浜喪失対策用の土が大量に積み上げられた山の上に、これからどこかに使われるこのテトラポッドが置かれている。その脇にこの遊歩道があり、さらに右側は防砂の林だった。夕刻、カメラをぶら下げて遊歩道を歩いてみる。風が海水を霧状に巻き上げるから、歩いていると、眼鏡のレンズはすぐに曇り、着ていたマウンテンパーカー(モスグリーン)も湿って来る。カメラは写真を撮るとき以外はマウンテンパーカーの中にくるむようにして海水の霧が当たるのを防いだ。海の近くで育った人は、こういう風の日を、服が海水で湿ってくるような日を知っていることだろう。大きな川の河口にはいつもより人が少ないが、それでも、こんな風の日にも関わらず何人かの人がいる。10歳くらいの男の子とその父はこの荒波の日に釣りに来たのだろうか、畳んだ竿を持って波打ち際からこの遊歩道まで戻って来た。それからカメラを持ってきたわたし。自転車でやってきた初老の男。私と反対側から歩いて来てすれ違った太ったおじさん。出会った人はそれで全員だった。写真の右側の防砂林のさらに右はフェンスが仕切って、その向こうに国道が走っている。国道134号線だ。ちょうど海鮮料理の店と、ラブホテルが二軒と、ガソリンスタンドと、新しくできる道の駅の工事現場があるあたりだ。カラスが二羽、南に向かって、風を受ける翼の角度を絶妙に制御しているのだろう、ホバリングして遊んでいる。大きなカモメが三羽一緒になって西から東へ低い空を風などものともせず飛んで行った。鳥たちはこのくらいの強風などものともしないのだな。

 歩きながら、忘れるってことについて考える。すべて忘れてしまえば、忘れたこともわからないってことだから、それは無であって、なにももう後悔もしないし思い出そうともしないし苦痛もない。だけど忘れられない、あるいはぜんぶ忘れていないがゆえに思い出そうと努力する。そういう状態があるということが生きているってことそのもので、すなわち生きるとは不完全であることがエネルギーになっているのではないか、などと考えてみたりする。だから不完全でも欠片となっていてもそれが完全に忘却されないように。

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