ただの風景

 まだ読み終わっていない文春文庫の「自転車泥棒」という本の213ページに

「本当の風景を撮るには、そこでかつてなにが起こったか思い巡らすのがいちばんだ。想像力を働かせれば、アドレナリンが実際に体じゅうを駆け巡り、皮膚に鳥肌が立つ。その刹那にシャッターを切れば、風景はもはやただの風景でなくなる。」

と書いてあった。

 小説という創作、あるいは虚構、のなかの文章だけれど、作家の写真への実際の考え方が表出した箇所かもしれない。しかし多くの写真は、この「そこでかつてなにが起きたか」を伏せて、撮影者だけが知って撮った、その風景を見て「ただの風景でない」と感じさせるほどのパワーを纏えるものだろうか?そして、それを乗り越えるために(ただの風景ではないことを伝えるために)、そこに起こったことをテキストなりで写真とセットで提示したとすると、それは、ただの風景ではなくなったただの風景を、ただの風景ではないということに無理やりしてしまうための、無理強いなのだろうか。こんなのは写真だけの話ではなく、すべて「表現」において作者が込めた思いのようなことを、作品をぼんやりと見始めた鑑賞者に、どうその「ぼんやり」を越えて知らしめるかが、これは難題なんだろうな。・・・とかなんとか考えてしまうと収拾がつかない。ぼんやりを越えてもらうための文章は、結局はあってもいいのかもしれない。小説に書かれていたこれだけのことなのに、なにか気になって、こんな風につらつらと考えてしまうから、やれやれな写真中毒ですね。。。

 かといってこの文章と上の写真はなんら関連はないです。今日は写真を撮らなかったのでまたまた古い写真を持ち出した。90年代もしくは00年代に入った頃かもしれない、渋谷です。この歩道橋と高速道路はたぶんいまもあるけれど、向こうにちらりと見える東急東横線の駅はなくなった(地下化した)。そして渋谷ストリームとかなんとか、新しいビルになったあたりかもしれない。「そこにかつてあり、いまはもうない風景が写っている写真」というのは、小説家の書いたことの裏返しのようなことであり、それはそれで時間の作用によって、ただの風景ではなくなり、人に懐かしさを起こさせるとすると、それは写真家の力量というより街の持つ変化のエネルギーという力量が示した、ただの風景ではなくなった写真・・・かもしれない。写真に対する時間の作用はすごい。つまらない写真がつまらなくなくなる、その変化が大きいのはありふれたそのあたりを撮った写真だったりする。。。

今日はイラストと写真の二人展(5/13-15)の口上部分を載せます。