ピンクの花

 読書をしようと思い立っても、自室にいると、結局いろいろと、例えば気になっていること(本当は大して気にしなくて良いこと)をついつい調べたり、中途半端な衣替えをしてみたり、そんないろいろで意外に時間を使ってしまい、読書の時間を確保しようという思いがあっても、あとから満足のいくような読書にはならなかったと後悔してしまう。いままであのときの読書は良かった、それは読書をしたときの場所のことだけれど、振り返って記憶に残っている「良い読書が出来た場所」ってあるだろうか?単身赴任先の木造の寒いアパートでインフルエンザで高熱にうなされながら、ソファーベッドに横になって二日で三冊も読んでしまった読書があったけど「良い読書が出来た場所」ではないし。40年以上前に晩秋の名古屋の午後、長く店内に日差しが差し込んでいるウッディな作りのカフェで、その店に置かれていたブラッドベリの「火星年代記」をココアを啜りながら読んだこと。15年くらい前に、混んでいる茅ケ崎スタバでひと席だけ空いていたカウンターの片隅で長田弘の「詩は友人を数える方法」を読んだこと、これはたぶん大晦日の夕方で、なにを飲んだのかは覚えていない。いまは会員制になったらしい京都の二条高倉あたりのレトロビル二階のブックカフェで、夜遅く、たまたま座った席の前の本棚にあった「高村光太郎詩集」を遅くまでずっと読んでいたこと。こうして挙げると、場所のことだけど、読んだ本に夢中になっているということが前提で忘れずに覚えているんだな、とわかった。読みかけの呉明益著の「自転車泥棒」を早く読み終わりたいのは、もちろんその話の続きを読みたいわけだけれど、その後に控えている積読タワーを構成している本たちにも早く読みたいものがたくさん控えているからでもあった。そこで、今日、5/4快晴の日に、大磯(私が住んでる茅ヶ崎からは東海道本線(東京 熱海)下りで二駅目)まで行き、写真を撮りながら散歩すること、と、カフェ等で読書を進めること、の二つを組み合わせて時間を使うことに。大磯町は前も書いたと思うけど、旧吉田茂邸はじめ明治の政財界の名だたる方の別荘があった町で、かつ、最初の海水浴場が大磯だったらしい。散歩を始めたら、結局この街撮りという散歩行為が足が疲れるまで延々と続いてしまいそうになる。最初の二時間半、8:30から11:00は大磯の港や漁師町、このブログにもそのあたりを散歩したときの写真は何度も載せている、その定番散歩コースを歩いてしまった。それでも、事前に開店時刻が11:00であることを調べておいた某カフェに入り、今度は意識して読書に集中してみる。それでやっと1.5時間ほど読書が出来た。そのあとも散歩と梅ジュース炭酸割、散歩とアイスコーヒー、とこの散歩とカフェのセットを三回も回して、最後の約50ページは帰宅後に自室で読み進め、読了しました。小説は長編でした。それは枚数というかページ数のことではなく、描かれる場所や時間や主題が複数交錯して、その結果、世界のことを垣間見せてくれている。そういう意味の長編で、小説家という人が、地道な調査や助言や勉強のもとにかつ緻密でありながら自由闊達に物語を紡ぐ能力って、凄いものだ、と思う。ただ私は短い短い掌編がもたらす小さな意外な視点や偶然の妙味のようなことを、ふっと例示してくれるのも、これまたたまらないのです。

 写真は島崎藤村の墓のある寺に咲いていた芍薬?の花。ほかに白い花も咲いていた。これもこのブログに書いていると思うけど、毎年、芍薬の花を見ると、森山大道の「光と影」に収められた芍薬の写真のことを思い出す。本やネット記事を読むと、ただ光とともに目の前にあった花に無心でカメラを向けたときにかの写真家はスランプから抜け出す一枚をものにした、ような話が語られているようだった。そういう無心に花にカメラを向けることが出来ない。だけどいわゆる花写真はかくあるべきみたいな写真ではなく日の丸構図でありながら、なにかこれはいい!という写真が撮れることがあるんじゃないか?と思いながら、結局は構図を気にしてあれやこれや、十枚かもっと芍薬を撮るが、これが面白いのは十枚撮って「どれも似たようなもの」ではなく「それぞれちゃんと(言葉以前のところで)いい感じとダメな感じ」の差があると思う。ということは「いい感じ」のなかに「とっておきにいい」が出るのかもしれないが、撮るときは十枚も撮って多いだろう、十分だろう、と思うわけだが、選ぶときには「とっておきにいい」が出てこないまま次の被写体へ変わってしまうから、なんだ10枚でもぜんぜん足りないじゃないか、と思うのだった。

 日の丸構図であっても、静止画であっても、動画としてみることができるような、あるいはその場の日の光が肌の感触としてもたらしている暖かさがわかるような、そういう視覚で静止画を見ている以上の別の感覚が起きるのが、ここで言いたい「いい」ってことだろうか。するとどうもカラーよりモノクロの方がそういう意味での写真の強さがある気もする。

 そして毎年毎年この花の写真を撮って帰ると、自分の撮った写真だけでなく、ネットで上記の森山さんの写真を検索し、それを見て、同じ太陽に照らされた花なのに、なんでこの「いい」の強さが森山さんは圧倒的なのか、その差がわからないが、ただただスゲーなと感心してしまう。