冷たい雨

先週読み終えた、杉田敦著ナノ・ソートの、写真家ウォルフガング・ティルマンスの作品に関する考察のところ。少し抜粋すると、
『(前略)たとえば、次のようなものを目にすることになる。脱ぎ捨てられたTシャツ、きれいに並べられた果物、足下のクローズアップ、夜景、(中略)スーパーモデルのポートレート、雪景色・・・。眼前に展開するシークエンスは、ぎこちなく物語を構成し始める。一見かけ離れたフラグメントであっても、あるいはまったく無関係なものの場合でさえ、順番に写真を眺めていくと物語らしいものが生成される。人は、どのようなものであれ、視覚的シークエンスに物語を見ようとする。つまりそれは、認識する側に働く宿命的な機能でもある。(中略)(ティルマンスが物語の生成を遠ざけようとしても)物語は姿を現そうとする。しかしそれは、ティルマンスのユニークな平面的なインスタレーションも原因して、常に不安定なものにしか結果しない。
やがて失意のなかで、こじつけにも近い別種の物語が生成されることになる。放縦で無軌道な若者たちのドキュメンタリーという類いの、メタでありきたりな物語がそれだ。(中略)インスタレーション空間のフラクタクル的な縮小相似のような展開のなかで、再び、最初に展示空間に足を踏み入れたときの脱力感が蘇ってくる。(中略)おそらくそれは、呆然としたまま視線を投げかけていたものたちが、車窓の彼方に見ていたものに似ているはずだ。意味を剥ぎ取られた無垢なイメージ。物語の痕跡は、そこにはない』
これに先立つ文章に、ティルマンスインスタレーションを見ることは『疾走する車の助手席で、ぼんやりと視線を車窓の彼方に漂わせながら、まったく別の想いに囚われているような状態に似ている』と書いてある。

私が15年くらい前に、初めてティルマンスの写真集をめくったときから、今でもずっと、どこに身を置いて写真を眺めればそれが「読み解ける」のかわからないような感じを持ち続けていてる。それでもそのときは「ようわからん」と本を閉じても、またいつかそれを手にして、ページをめくり、またもや同じ狐につままれたような感じに囚われる。杉田敦はそんな感じをより分析して解説してくれたみたいで、そうか、私が感じていたことがまさにティルマンスたる特徴なのかと少し安心したり。
それはそうと、この引用部分にある、人は視覚的シークエンスに物語を見ようとするのが宿命、と言うところに興味をひかれた。
反論として、たとえば、何があろうとどこ吹く風と、大きく構えられる人は、その物語がなくても、あるいは物語が緻密でなくても、受け入れられるのではないか。いちいち物語が欲しいのは、物語があることで整然とした理解の論法が作られると言う安心が得られるとも言えるかもしれない。
しかしこんなのはよくある堂々巡りで、物語がない、もしくは物語が緻密ではないと言い切れることなんか実際にはなくて、必ずや物語はある、のではないか。その物語のありよう、もしくはなにを物語として拾い出すかと言う、う~んと、なんて言えばいいのかな、視点の置き方、かな?その違いがあるだけだとも感じる。杉田敦の言うところの「宿命的な機能」なのだから。
安心で平易で予定調和的な物語の発生する環境をどんどん難しくしながら鑑賞者に提示してみる、と言うことをティルマンスが意識的にやっているのなら、なんだかゲームの難易度のステージを上げて行くゲームクリエーターの術中のようだ。なのにティルマンスがこれだけ著名で支持を受けるのは、鑑賞者が踊らされているのでなければ、挑戦を受けて立つ高い鑑賞力を持った人が意外にたくさんいるってことか、あるいはティルマンスの写真がそういう次元とは別の平易な見方にも応えられる魅力を持っているか、と言うことだろう。それが杉田敦の言うところの「放縦で無軌道な若者たちのドキュメンタリーという類いの、メタでありきたりな物語」かもしれない。
結局、私にはまだよくわからない謎のティルマンスなのです。

写真は車窓からぼんやりと見えた風景ってことで。