ハイビジョン以前のテレビ画面のように

 一般家庭にハイビジョンテレビが置かれるようになったのが2000年を過ぎた頃だったろうか、最近は夕方にNHKBSでハイビジョンになる前の古い番組が再放送されていることがあり、今当たり前に見ている画質よりずいぶん低画質だったんだなあ、と思うが、当時はスタンダード・ディフィニション(SD)の画質で十分で、ハイビジョンを待ち焦がれたりはしなかった。SDは720×480のドット数相当だったから35万画素くらいで、使っている3000万画素のデジカメと比べると約1/10の画素数になる。だけどそういう昔のテレビの不明瞭な画質は、なんとなく最初っから懐かしさを纏っているように見えて、リアル(高画質)でない分、心が揺すぶられる時がある。こんな話は何度も何度もこのブログに書いていたことで、またかよ!って感じもする。

 すなわち、画素数が少ないことによる低画質が「低」ではなく「記憶」画質と感じるわけだが、もうひとつ面白いのは、撮って来た3000万画素の写真から例えばSD相当の720×480、あるいはもっと狭い範囲を切り出そうと思って改めて写真を見直すと、撮ったときには気付かなかったような「場面」が含まれているってことで、低画質と引き換えに見過ごしていた決定的(かもしれない)瞬間を拾い出せるということだ。

 下の写真は昨年の夏に森戸神社裏の海を撮った写真から、決定的かどうかはさておき「物語がありそうな瞬間が写った記憶写真」を作ってみたもの。600×400くらいの範囲をまずトリミングして切り出したのが下の写真。下の写真をスタートの素材にして、自分としては上の写真が、昔のテレビのように見える「記憶写真」になるよう補正した結果です。この補正とは具体的にどんな作業なのかは、いちいち書かないが、かなりアナログ的な作業なんです。なにしろ途中でモニターを接写するという作業が入るのであります。

 これも何度も書いている疑問なんだけど、SD時代のテレビ画質を覚えている年齢の人は、こういう低画質を見る→昔のテレビを思い出す→昔は懐かしい→なんとなく記憶のような映像に思える。こういう思索の道筋がなんとなく想像できる。想像しているだけで合っているかどうかは判らないけれど。しかしSDテレビ時代の画質を知らない若い人たちは、低画質を見る、から、記憶のような映像に思える、の間にどういう道標があるのか。ただ、彼らだって、最後は「記憶のようだ」とどうやら感じるらしい。

 ということはテレビのが画質の進化の歴史とは関係なく、人間の心のなかで、記憶がだんだん薄れて行くという仮定で、リアルな高画質から低画質方向に映像の記憶が変容するという、カメラやら写真やらが発明されるずっと以前から、なにかそうなるように人類の身体が出来ていたのだろうか。←これ、以前からずっと疑問なんです。

 どうですか?ここに書いて来たことは私だけの感想で、この写真を見てくださった読者の皆さんは「はぁ?酷い画質ってだけで、それだけであって、懐かしさとか記憶とか・・・一体なんなの?全然そんなこと感じないよ」なのでしょうか?

 テレビの画面にせよ、写真にせよ、それはそれが撮られたその場所で観るものじゃない。スマホだと静止画だろうが動画だろうがその場ですぐに見返すしそれが実行しやすい。デジタルカメラも可能だが、機械の作りがより撮ることに適した造形なので、その場ですぐ見直すということの気軽さはスマホには及ばない。そしていずれにせよ、ちゃんと鑑賞したり、誰かに思い出の証拠写真として「ほら、見て見て!」とスマホやプリントを渡すときは、もうそこに写った写真や動画は過去になっている。すなわち写真や動画を観るということは、多くは(多くじゃない数少ない事例が具体的には思い浮かばないが、なんとなくあるような気がして「多くは」と書きました)過去を見ている。写真は映像はその基本的成り立ちからして思い出とか記憶とか懐かしさとか、そういう単語と親和性がいい。もしかすると事件のドキュメンタリー写真ですら、最初の目的や使命が果たされたあとは、同じく記憶や懐かしさに浸かるんじゃないだろうか。そういうときリアルを思い出させ言葉を補うための高画質写真と、そもそも思い出話をしているなかで写真もその気分に寄り添える記憶写真(低画質写真)とがそれぞれまた効能が違ってだけど共存するんだろう。

 低画質な上の写真であったって、海やプールで鼻に水が入ってツンと鼻の付け根が痛くなったことや、恐る恐る水に入り、まずは慣れるために潜っておこうと、息をとめ頭を沈めた瞬間の水のなかのこと、例えば音が突然遠くに行ってしまった瞬間のこと、などを思い出せるんじゃないか?

 今日は雨でかつ在宅勤務だった。仕事を終えてから、一年前の夏の写真をなんとなく見返していました。一年前の夏はコロナ禍の東京オリンピックがあり、そのときそのときは活躍した選手に拍手喝采を送り、夢中になったものの、1964年のオリンピックの記憶を上塗りして塗り替えるには程遠いものだった・・・ってこんな感想は1964のオリンピックを覚えている人たちだけの感想なのかもしれないが。私が撮った写真には相変わらず海辺のスナップや車窓からの風景が写っていた。そのうちにこうして「記憶写真」を久しぶりにやってみようという気持ちになりました。