ジオラマを撮る理由はなんだろう

 尖石縄文考古館には縄文土器等が発掘された場所に赤い丸ピンが打たれたジオラマがあった。ジオラマを見るのは面白いですね。写真も撮りたくなる。この日はセンサーサイズが1インチのコンパクトデジタルカメラしか持っていなかったので、ボケ味を変えながら、ジオラマの一部をより浮き上がるように撮って遊ぶようなことは出来なかった。ジオラマはこの写真にも黒く写っているジオラマになっている範囲の端っこの断面、地層が見えるところがなんだか面白くて、この「地層部」を入れて撮る癖がありますね。なんでしょうか?カバーの被った車を見ると写真を撮りたくなる、打ち捨てられて雑草に覆われそうな錆びた廃車を撮りたくなる、風によって葉の裏が見えている街路樹を見ると写真を撮りたくなる、ジオラマ模型を見るとその端っこの断面を撮りたくなる・・・。こういうのは食の嗜好、服の嗜好、音楽の嗜好、なんかと同様に、その人が先天的な、あるいはなんらかの体験によって幼児期に後天的に備わった、いずれにしても子供のころに形成された嗜好がそういうところにちょっと垣間見えるのだろうか。それとも実は時代の流行が無意識化にも波及している影響なのか。たしかにカバーの被った車の写真はロバート・フランクの写真にもある。私の持っているランダムハウス版1986年の写真集「アメリカ人」ではP70に「Covered car Long Beach,California」と題されている。だからロバート・フランクの写真から類似の写真を撮ろうという欲が無意識に心に生まれたのかもしれない。だけど可能性として、ロバート・フランクがカバーの被った写真を撮りそれを写真集に採用した理由と同じ理由で、カバーの被った車の写真を撮るのであって、写真に影響されたというよりよりその撮影動機のところで共通性があるのかもしれない。そういえば写真家の鶴巻育子さんも最近どこかに「カバーの被った車を見ると撮ってしまう」と書いていた。

カバーの被った車は中身が見えないことで妄想の入り口となるだろうか。風が強い日の葉の裏側には普段見えないところが垣間見える覗き見のスリルを代行しているだろうか。廃車の車は本来の役目を終えたものの朽ちる姿に時間の流れを思うだろうか。そして、ジオラマの断面は本来見せたいところではない周辺を裏からこっそり見るような意地悪さがあるだろうか。もしそうだとすると街角スナップで、無意識的にであってもこういう写真を撮る行為は基本的には正義や公正とは正反対の、なんか胡散臭さを持っている。そもそも当事者的行為ではなく傍観者的行為だよなと思う。考現学のように街を見て歩いているかもしれない。

 ジオラマの端っこの断面を入れた写真を撮るときに、でもこうして山の頂と谷があるような、断面の中ではいちばんフォトジェニックな部分を見定めたり、その谷に流れている川の水色をかわいいと思う。カメラの高さと傾きも考慮して、向こう側がどう写るかも少し気にしたりもする。