包装された中身

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夕方、いつもの「畑コース」にちょっとだけアレンジして別の道筋を混ぜると、当たり前だけど知らない光景が増える。いや、同じ道筋だって日々違う光景になっているのだが、光や草花や雲や風が、だけど、やはり「そこにあるもの」が違うのだから判りやすく「知らない光景」なのだ。

カバーを被った車は、ロバート・フランクの「アメリカ人」、私の持っている1986年のランダムハウス版だと76ページに「Covered Car ~ Long Beach,California」という写真があって、たぶん私にとってはきっとこの写真が「見本」として刷り込まれている。刷り込みの力は甚大で、カバーの被った車を見ると写真を撮りたくなる。あまりに撮りたくなるから意識的に撮らないようにしているくらいだ。風が吹いている日にカバーが膨れたり縮んだりするのも面白いから、そういうときはやっぱりカメラを向けてしまう。

でもなんでだ?なんでロバート・フランクはカバーの被った写真を撮ったのだろう。ロバート・フランクにもさらに「見本」があったのかな。

もしかしたら、中身が車だとは判るけれど、でも赤裸々にどんな車かは判らないから興味深い、という気持ちは、ちょっと性的な興味に近いのかしら。よく言う、チラ見せでそそられる的なこと。いや、しかし、ではカバーの被った車のそのカバーを捲ってしまってなにの車種なのかを知りたいぞ!とはあまり思わないな。

だからそういうチラ見せではなくて、やはり本来はしょっちゅう使われる自動車という移動手段にカバーをかけてしまっているということが思わせる、長い(不本意かもしれない)休み時間や、あるいは機関車トーマスのように自動車を擬人化してみたときに、その自動車が使われていない哀しさとか、一方で使われていない「休み時間」に擬人化してみた自家用車が休んでいる風景にのほほんとした何かを感じている、とか?

撮っていながら、撮りたい理由がわからない。だから写真を撮るということは理屈ではないのだと思いますね。だけど選んだり見たりするときに、その理屈ではない「自由」に束縛が生じているのではないだろうか?

理由はよくわからないがカバーを被った車は、私にとって「被写体」なのです。