忘れていないけれど思い出せない

 12月が始まりました。今日から寒くなるとさかんに天気予報が告げるけれど、確かに昨日までと比べると冷えた朝だったが、それでも覚えている真冬の寒さと比べるとまだ暖かいようだ。通勤のために運転する自家用車は往路は日の出前で暗く、復路は日が沈んだあとでもう夜。赤信号で停められるときに何枚か写真を撮ってみたけれど、ここに載せるような写真ではなかった。だからまたHDDの中へ旅をする。12月になったから12月の写真を辿る。これは2010年10月4日、湘南モノレール西鎌倉駅から広町の森に向かう途中の住宅地。朝日を浴びて、電線が銀色に光っていた・・・と過去形で書くとそのときのことを覚えているみたいだけれど、実際はあまり覚えていない。でもちょっと綺麗な感じ。

 読書中は滝口悠生の「死んでいない者」。昼休みにいつもしゃべっている仲間が来る前に、少し読み進む。文庫のP125『(前略)思い出せないのなら思い出せないでもう構わない。そうやってたくさんのことを忘れてしまって思い出せないのだし、もはや忘れたことすら気づいていない記憶がたくさんある。忘れてはいないのだが、もう死ぬまで思い出せないのかもしれない記憶もあって、考えようによったら忘れるよりもその方が残酷だ。』こういうこと、私もよく考える。こんな風に古い写真を見て、そんな写真を撮ったことを写真を見ても思い出せない。写真の前後を見て、あぁこんなところを歩いた日があったな、と思い出せることが多いが、まるで思い出せないこともなくはない。そうなると写真だけが今新しく眼の前にあって、それは昔そこに自分が行き、自分が撮った写真(ということも忘れているというか判らないから)新しく旅をしているようなものだ。とかなんとか考える。文章にするとどう書くのかよくわからないが、そういう風に写真に出会うのも悪くないし、残酷とは思わない。むしろ楽しみだ。

 ジャズ喫茶の棚に並んだ数万枚のLPレコードがあったとして、でももう何十年もターンテーブルに載せられていないレコードがそのなかにあるんじゃないか?忘れてはいないのだが、もう死ぬまで思い出せないのかもしれない記憶、はそれに似ていないか?重要なのは思い出すことにつながる刺激、トリガーに出会えるかどうかだろう。忘れてはいないが思い出せない記憶は、忘れている記憶と同じことになりはしないか?ただそういう記憶が引き出されずに眠っているということを認識することで、それが残酷になるのだろう。

 滝口悠生の小説を読んでいると、保坂和志の小説を読んでいるときと同じような感覚を覚えることがある。