似ている誰か

 横浜のみなとみらい地区にあるパシフィコ横浜でカメラのショーをやっていたので、昨日の日曜日に見物に行った。見物のあと、会場の海側にあるこの公園を散歩してみた。陽射しは暖かく、でも風は少し冷たく、海にはさわさわと波を立てていた。向こうには横浜ベイブリッジが見える。もう少し季節が進み、夜も寒くなくなれば、きれいな夜景の港を見に恋人たちがやって来るのだろうか。写真の背中側を見ればたぶん数年前にはまだそこに建っていなかった新しいオフィスビルやホテルが、ぴかぴかのガラスと金属の外観で見えた。

 月曜日、この写真を見ながら、過去に公園で日がな一日のんびり過ごしたことなんか、自分にはないな、と思った。芝生にビニールシートを拡げて、靴を脱いでそこに乗り、飲んだり食べたりをして、友人がいればなにやら話し、いなければ昼寝をしたり本を読んだりイヤホンをしてなにかを聞きながら空を行く飛行機を眺めたり・・・そういう風にリラックスしたことがあまりない。少しはあったかもしれないが、はっきり覚えていない。うーんと・・・そうだった・・・25歳頃に、オートバイを運転して、当時住んでいた横浜市緑区から藤沢市鵠沼の(相模湾の)海岸沿いの公園にやって来て、芝生に座り込み、ウォークマンでカセットテープに録音しておいた南佳孝の「日付変更線」という歌を聴いたことがあった。いまかろうじて、そんなことを思い出した。かといって芝生に寝転がって長い時間を過ごしていたわけではないけれど。せいぜい三分か四分の曲を聴いたというだけでそそくさと立ち去ったのかもしれない。

 その曲の歌詞には

♪恋の余韻 欲しくって 顔も見ずに出てきたよ 君は君で生きるし 僕は 君に似ている誰かに出会う♪(作詞はユーミン

と歌われている。鵠沼海岸でこの曲を聴いたときに、別れたあとにその別れた人と「似ている誰か」に結局また出会って行くと、自分の近未来をそう考える・・・ものなのか?歌っている一人称の「僕」が自分の近未来についてそう歌うのは、ひとつは結局別れたその人が忘れられないという心がそう思わせるいわゆる「未練」かもしれない。そうでないとしたら、自分の好きな人の「タイプ」があって、そこからは抜け出せないと知っているってことだけど、そういう風に思うものなのか?とかなんとか・・・ここの歌詞に引っ掛かったことがありましたね。急にどうでもいいことを思い出した(笑)

 「タイプ」としてくくられるのかもしれないがそれは結果であり、あるいは第三者的評価であり、新しく誰かを好きになるときに、そこに元カノとか元カレに似ていること(タイプを揃えること)を「条件とする」なんていうことは、それは結局、元カノなり元カレに未練があって諦めていないってことであり、次の「新しい似ている誰か」に失礼じゃないか!と思った・・・・のが忘れられないわけだ。

 どうも人というものは、どうでもいい些細なことを覚えているときがあります。