寒い曇りの日

 ここ数日、夏のような日が続いていたので、昨日より4℃、一昨日よりは6-7℃最高気温が低い20℃だった土曜日は、午後からは晴れる予報だった天気予報も当たらず、終日ずっと曇っていた。読書中の分厚い単行本を自室のベッドの上に胡坐をかいたり、丸めた掛布団に背中を預けて足を伸ばす姿勢になったりしながら、読み進めているが、どうも読書に集中するための姿勢が見つからない。ごろんと横になって読んでいるといつのまにか眠っていた。午後の3時になり、単行本とカメラとスマホと財布をデイバックに入れて自転車で出かけてみた。晴れたら出かけようと思っていたのだが、このままだと晴れず、晴れを待っていたら終日どこにも出ない日になりそうで、それでもいいやとは思えなかったから。数か月に一回のペースで行く、カフェで、その店に行くと食べる焼き林檎とコーヒーを頼む。本を読み進む。静かなカフェには私のほかは女性客ばかりだった。ひとりの客もいれば三人でおしゃべりをしている人たちもいた。1時間ほど読書をし、そのうちに全部の席が埋まり、そこに二人客が来て、私は一人で四人席を占領していたから、その二人客に「もう帰りますよ」と言ったけれど二人は帰ってしまい、だけどそれを潮時にして店を出た。店の入り口の横には蜜柑の木が一本。白く丸い蕾がたくさんついていて、お菓子のようなその蕾が可愛らしく思え、デイバックからカメラを取り出して3枚ほど写真を撮った。

 そのあと閉館間際の氷室椿園に寄り、ひとつきほど前とは全く異なる様子の園内を歩く。いちばんの違いは山桜が葉を付けて、小路の上に傘のように広がっていることと、椿も葉を茂らせていて、そのせいで曇りの今日は暗い印象になっていることだった。早くも真白の菖蒲が花を付けている。

 椿園を閉園ぎりぎりに出て、たぶん17:10頃に海へ行った。デジタルカメラのズームを望遠側にして砂浜に集う人たちを写真に撮った。犬を散歩に連れてきている人と、投げ釣りをしている人と、砂浜を東から西へと歩いて行く人が見える。私が写真を撮っている横に一人の、70代だろうか、女性がやって来た。少し話をする。彼女は都内のN町から35年前に茅ケ崎に引っ越してきたと言った。私が茅ケ崎に住んでからは34年だから女性の方が少し早くやって来た。どうしてそんな遠くの田舎に行くのか?と反対されたそうだ。たしかに都内N町と言えば都心の憧れの人気エリアで、そこにむかしからお住まいの方からすれば茅ケ崎など遠くの田舎だった(というかいまもそうだろう)に違いない。だけど茅ケ崎は明るくて住みやすく、引っ越しに反対した女性のお母さまも最期の数年を茅ケ崎で過ごしたそうだ。そんな話をほんの二分か三分のなかで聞く。海を見ていると誰かと話したくなるものだろうか、この海に面してちょとしたベンチのある場所でこうして見知らぬ誰かとほんの少しだけれど話したことは今日だけでなく今までにも何回かあった。女性と別れて自転車にまたがり、ふと振り返ると、彼女は杖を突きながら砂浜へ降りる階段を、いままさに最初の一段を、降りるところだ。ずっと上空を覆う、低く垂れこめた雲が居座っているが、その二分か三分のあいだに、雲を透かせて少しだけ青い光が見えた気がする。

 帰りに茅ケ崎駅ビルでハムカツと串カツとポテトサラダを買って帰った。神戸と横浜マリノスのテレビ中継をやっている。試合を見ながら食べた。夜になるのはずいぶん遅くなったけれど、夜はやってきて、神戸のスタジアムには大勢がつめかけて声援を送っている。私はそのテレビを観ながら、ハムカツを食べている。電子レンジで温めてからソースをかけたハムカツ。

 テレビを消してしまえば、静かな夜だ。バス通りをたまに車が通るほかには音はしない。試合に一喜一憂し、勝っても負けても仲間と乾杯し、話したり話を聞いたり、打ち明けたり議論したり激励したりして、夜遅くに「またね」と挨拶してひとり家路につく、遠くの町の知らない誰かのことを思う。祭りのあとの淋しさと、ついさっきまでの仲間と一緒だったときのことを思い出す楽しさを、両方感じている幸せな誰かのことを思う。