大磯左義長

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昨年は行かなかった大磯の左義長祭りに行ってみた。何度行っても、撮りたい写真はかわりばえしなくて、上の写真のように祭りが終わりに近づき、大勢詰めかけていた人たちもいつのまにか帰ってしまい、左義長の火も小さくなったあとに、残った人々が火を囲んでいる場面なのです。カメラ機材の発達の方はすごいもので、これもう手持ちですからね。以前は三脚必須だったのだが。

煙に当たるから、着ていたダウンジャンパーや髪の毛が燻し出されたように煙の臭いを吸ってしまう。帰宅して、そういう行ってきた場所の「なごり」を感じるのも悪くないものだが、結局はファブリーズしたりして大変だ。

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夜に歩く

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写真は昨年の12月末に撮ったものです。

暖冬とはいえ、寒い夜。正月休みに、風邪や腹下しやテニス中の捻挫やらで、家で寝込んでいた人が、会社仲間にたくさんいた。こういうのって、仮に誰かの悪意で、世の中に風邪や腹下しやテニス中の捻挫を誘発する仕掛けをされていたとして、いったいどれくらい例年より正月休みをこういった理由で「棒に振った」人が増えたら、あれ?なんかおかしいぞと気が付くのだろうか。あるいは仕掛けとか悪意でなくても、なにかの理由があって、その理由故に表出的な現象としてそういう家で寝込む人が増えたとしたら、それが増えていることにどうやって気が付くのかな。いつのまにか、誰も気づかないところで、深く潜航しながら、必然として風や腹下しや捻挫で正月を棒に振ることが当然の帰結になっている、として、そのことにいつ気が付くのか。

みたいな不穏なことを考えたりする。寒い夜。

 

パソコン

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写真は昨年12月の中頃に代々木公園で撮ったもの。冬の快晴の休日に代々木公園に集まって演劇の台詞の読み合わせでもしているのかな、若い人たちのグループ。大抵のことは時代とともに変化して、若い人たちの考え方や価値観や生活の柄も、すべて変化して、スマート化して、人が心の奥に秘めた感情までも清潔で素直なばかりになっているように思えてしまう。すなわち、そこが浅く、肝が据わらず、みかけの正義が一番強くなる匿名社会。とか、いかにも年を経たおじさんがいつの時代にでも言っていそうな嘆き節だが。ところがこういう場面に出くわすと、若い人のエネルギーのようなことが、ピュアで生意気で強がりでか細いそれが、いつの時代も共通にそこにあるようにも思えてくる。なので彼らの横を通るときは応援するような懐かしいような気持ちになる。

とはいえ、私が学生時代に演劇をしていたわけではないですよ。本読んだり映画見たり写真を撮ったりしていた。映画「タクシードライバー」は三本立ての名画座あたりでしょっちゅう三本の中の一本として組み合わさっていたから、何回も見ましたね。1970年代後半の話です。

9年間使っていた家のデスクトップパソコンが故障。ファン異常で冷却効率が低下しているという警告ポップが現れる。そこでお客様相談窓口に電話をして、直せるかを聞いたら、部品在庫切れで修理不可能と言われました。

 

鎌倉散歩

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鎌倉へ行ってみる。混んでいるであろう鶴岡八幡宮には行かない。江ノ電乗り場のある方のJR出口(いわゆる裏口)から出て、すぐのところにあるカフェで昼食としてスパゲッティを食べ、目の前(カウンター席だったので)でサイフォンでいれられた珈琲を飲んだ。由比ガ浜通を歩いて、長谷の御霊神社に行ってみる。鳥居のすぐ前を江ノ電が走って行く。百円を払うと9月に行われる神事「面掛け行列」で使われるお面を見ることが出来る。異形とか烏天狗とか福禄寿のお面。みなどこかひょうきんな感じもがする。御霊神社に行く道の途中でMade in KAMAKURAの洋服を売っている小さな店があった。そこで茶色のセーターを買った。

御霊神社から坂の下の路地を下って海へ出る。ほとんど波のない波打ち際を歩く。貝がらを拾っている子供たちがいる。凧揚げをしている家族連れがいる。砂浜に拾った棒きれで2020と書いて、それと一緒に記念写真を撮っている若者がいる。

読んでいる宮本輝の書いたエッセイのなかに、ただすれ違っただけの人なのにずっと忘れない人がいる、という話があった。今日、この鎌倉ですれ違った人で、忘れずに記憶に残っている人がいるだろうか?と、午後3時過ぎに鎌倉駅に戻って来て入ったカフェで珈琲を飲みながら思い返す。マグカップに数字の5が書かれているカフェだった。

しかし、きっと数百人の人とすれ違っているのだろうに誰一人としてなにか忘れ得ぬ特別な理由をもって覚えている人なんかいない。それは私の感じる力がないからだ、と思うから、がっかりした。

スパゲッティ。タバスコなんてほんのちょっとだけ掛けるものだと知らず、中学のときにはじめて友達と二人で入った喫茶店で、二人とも「知ったかぶり」をして大量のタバスコを掛けまわしてしまったことがあった。今日もちょっと多めに掛け過ぎた感じがしないでもない、舌がぴりぴりするのだった。それでそんな中学生だった頃のことを思い出したわけ。

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謹賀新年

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朝、6:30頃に目が覚める。しまった!例年通り、茅ヶ崎海岸で初日の出を見ようと思っていたが、もう15分は早く起きないと間に合わなかった!と思ったが、南や東の空は雲があって、どうやら時刻通りに日が昇るところは雲に隠れて見えないだろう、とわかったので、慌てず、再びベッドに寝転がった。

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

8時前に真上から北の空はもう雲が切れて青空が広がって来たので、カメラを持って出かける。茅ヶ崎駅方面に、途中ある第六天神社や神明社厳島神社をのぞきながら散歩する。小さな神社は、それでも年が明けた深夜には参拝客を迎えて焚火を作ったり、みくじを売ったりしていたらしい。テントが作られその下にテーブルが置いてある神社もあったが、私の行った時刻にはどの神社も人がおらず、御籤もお守りもお札も売られてはいなかった。神殿の中には奉納された果物や野菜や餅が並べられている。

歩いているうちに雲の上まで上がって来た太陽からさーっと日が指してきて、街路樹の木蓮のつぼみの毛がきらきらと光った。

海に着くころにはすっかり青空になっている。遅れて上った日の出を見たひとたちが三々五々、海から帰ってくる。やっぱりなんだか出遅れた感じがする。海に着くともうあまり人がいない。徹夜をして遊び、仲間と一緒に海まで初日の出を見に来たグループにはなんだか疲れたな~という感じが漂っている。そんな中に一人か二人はしゃぎ続けている元気な奴がいる。あるいは疲れているけれど道化役を買って出て、一生懸命ふざけているのだろうか。そういう「感じ」が懐かしい。

海を見物して茅ヶ崎駅まで戻り、スタバで珈琲を飲む。また歩いて家に帰る途中に本社宮に立ち寄ってみる。お御籤を引いてみたら大吉だった。年の前半は「枯れ木」のように思えるが、その後いっせいに「花が開く」と書かれている。本社宮では参拝客に、私が行ったときには私のほかに二家族しかいなかったが、参拝客に蜜柑を配っている。二ついただく。小さな蜜柑を左の掌に持って歩く。帰宅して食べたら甘すぎず酸っぱすぎず、さっぱりとした美味しさだった。

今年もよろしくお願いします。

 

三日月

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2019年に撮った写真およそ22000枚。読んだ本73冊。大晦日、終日年賀状作成し、午後7時頃に茅ヶ崎郵便局本局に投函に行く。今日は最高気温が約20℃となる暖かい大晦日。しかし郵便局まで歩いた時刻にはすでに気温はどんどんと下がっていた。人通りが少ない。例年より年末年始にちゃんと休もうよ、といった社会的な雰囲気のせいか、早々に店じまいをしてしまった店も多いのだろうか。郵便局のあとに茅ヶ崎駅ビルラスカ一階の食料品売り場に寄ってみたら、そこだけが混んでいて、八百屋も魚屋も長い列が出来ていた。大好きな芽キャベツを買っていこうか、それをソテーしたり茹でてマヨネーズをかけて食べようか、と思ったが、長い列を見てあきらめた。

日が暮れたころに空を見上げたら三日月が空にかかっていた。夕焼けの雲と一緒に望遠レンズで写真を撮った。この数十秒後にはもう雲の紅の色は消えて行った。

今年最後に読了した本は「人ノ町」という本だった。若い作家の近未来(いやだいぶ未来)を舞台にした連作短編で、これがとても面白かった。人の社会の幸福な在り方というのは何なのか?ここまで広範につながり、様々な情報が行き交い、隠れ蓑がなくなっていく世界に、人類はいつか疲れ果てるのかもしれない。退化が進化の選択のようなことの可能性を考えさせる本だった。

今年一年、ありがとうございました。そして、ベルマーレ、J1残留出来て良かった。

人ノ町 (新潮文庫nex)

人ノ町 (新潮文庫nex)

  • 作者:詠坂 雄二
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/07/26
  • メディア: 文庫
 

 

誰もいない椿園

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 伊豆高原にある小室山にリフトに乗って上がってみると、目の前にどかんと大島が見える。こんなに近いのか、とあらためてびっくりした。キラキラ光る海面の向こうに逆光のなか利島も見える。向こうにすっかり野焼きが終わった茶色い大室山も見える。

ふたたびリフトで降りて、ふもとにある椿園に寄ってみる。公園の係員によればいろんな樹種があるから花が咲いている木もありますよ、ということだった。そしてたしかに花をつけている木もあった。しかしやはり総じてまだまだ蕾が硬い気が大半だ。そして季節外れの椿園を散策している人などほとんどいないのだった。ときどき花の咲いている木に目白がやって来て蜜を吸っては飛び去って行く。

椿の葉は艶やかで日の光を反射するからさきほど見た海面のように明るい。花のない椿園は明るくて、誰もいなくて、隣のテニスコートからときどき人のはしゃぐ声が聞こえてきて、優しい時間だな。