さまざまな淹れ方の珈琲を楽しむこと

 今日も京都にいます。御所の東側に隣接している萩で有名な梨木神社に3ヶ月前に出来たばかりのスペシャリティーコーヒーのコーヒーベースで、バリスタの方と一対一(申込者が私一人だった。最大4名まで受け付けているそうです)で一時間半、同じ珈琲豆、今日は雲南の豆でした、を使って、水出し→ドリップ→エアロプレス→ラテの順番で、目の前で珈琲を淹れながら味わいの違いを楽しめるというコースを体験してきました。味はもちろんそれぞれ違い、楽しめました。和菓子もあいだに二種類。豆の選択によっては洋菓子を供することも、また淹れ方もまた別の方法を選ぶこともあるそうです。ずっと一対一なので、わたしはそんなことは全く思わないけれど、ちょっと一人だと緊張するかもですね。ちょっと贅沢な珈琲体験でした。梨木神社の湧き水は京都市の三大名水の一つで、かつ昔からずーっと同じ場所で汲んでいる。なんでも京都の地下水の水脈は地下鉄東西線の麹でだいぶ影響を受けたとか。
 水脈と聞き、地脈や水脈が物語の鍵になっていた荒俣宏著の帝都物語のことをちょっと思い出しました。あの本が出たときは会社の本好きのあいだでもずいぶん話題になったものです。映画にもなった。物語にはとても大きな月が出てきましたね。月は上がったばかりだと大きく見えることがある。それは人の感覚で、そういうときに標準レンズのカメラのファインダーで覗くと、その感覚が消えてカメラのファインダーの中で月は思ったより小さい。富士山も実はそうなのです。人の目にズーム機能はないけれど感覚的には注目しているは月や富士山は大きく見える。それで良いのか、冷静になるべきなのかは、そのときどきですが、概ねそれで良いとしたほうが楽しいのだろう。

 写真はエアロプレスで淹れた珈琲。

露出アンダーになりがちな理由

 今日も京都に来ていますが、それはさておき、写真は都内の代官山と渋谷の中間地点付近を歩いているときに撮った青っぽい古めかしい集合住宅の階段。ひと月くらい前、高橋恭二の写真展のあとに歩いたときです。フイルムカメラで撮っています。古いフイルムのマニュアルカメラを使ったことのない人は、とっても難しい作業だと思うかもしれない、その頃はこれからここを撮るというその場所の光の量、すなわち明るさや暗さを、自分の目で見て、入れているフイルムの感度も勘案した上で、シャッター速度と絞り値の組合せを自分で決めていた。このくらいなら写真が真っ白に飛んだり、真っ暗で写ってない、そんなことにならないだろうと。自分で決めるというとなんかちょっとかっこいいけど、決めた結果がハズレてしまうこともよくありました。今はカメラがセンサーとマイコンを駆使して決めてくれて失敗しないようにしてくれる。そこからさらにもう少し明るくとか暗くとかは、カメラマンに委ねられるものの。
 癖がありまして、私の場合、快晴や晴れはほぼちゃんと正しい露出となるマニュアル設定が出来るのですが、少し暗くなったとき、曇天や昼下りから夕方、明らかに暗い夜ではないそういうときに、自分が定めるシャッター速度と絞り値だと、露出アンダー、取り込んだ光の量が足らないことが多発します。これはね、手ぶれしたくないという気持ちが無意識的に働いて、シャッター速度の選択幅を標準レンズの場合は1/30秒、がんばっても1/15秒までで留めてそれ以上スローシャッターにしたくない、という気持ちが無意識的に働いていると思うのです。それから絞りの方も、特に古いレンズでは窓を一番全開にする、この状態を絞り開放にすると言うのですが、全開にすると像が甘くなりがち、甘いとはぼんやりしていて細かいところまで写ってない感じかな、そうなりやすいのでちょっとだけは開放より窓を閉じておきたい。この気分も無意識的に働く。手ぶれしたくない、甘くしたくない、この2つの理由から、スローシャッターや絞りを全開に、なるべくしたくないという気分が働き、まぁこんなのも正常性バイアスかもしれません、これくらいのシャッター速度と絞り値ならなんとか写るよね、と思い込みたくなる。そういう手ぶれと画質への懸念の結果、なんとなーく露出アンダーな感光量不足の写真ばかりになるのです。これはわたしの癖だろう。
 この写真も露出アンダーです。それを現像及びデータ化をやってくれるカメラ店がデータにするときに自動的に?多分、それなりに写ってるものがわかるようにデータ化時の画像補正で少し救ってくれている。その結果、ちょっとざらついた感じがしてますね。でもまぁこれがフイルムの味だ!なんていう意見もあるかもしれない。
 青いマンションに住むのってどうだろう。絵本の、そらいろのいえ、には空色の家が出て来ます。絵本に感激してのだろうか?知り合いに戸建ての家を買ったときに外観色を空色にした人がいました。ロマンティックだなと思った。リフォームのときに空色をやめてしまったのが残念でした。
 

京都で

京都にひとり旅に来ています。旅に出るのはもちろん楽しみだ。だけど日が迫ってくると、旅を決めたときの高揚とは別に、なんだかめんどくさい気分が持ち上がってくる。これは私の欠点というのかダメなところなのだろうな。ひとり旅ならまだしも、二十代の頃にはグループでスキーに行くとかなんとか、誘われたときは気軽にいいよ~なんて答えていたくせに、いざ日程が迫ってくると、だんだん行きたくなくなる。めんどうになってくる。それで実際にドタキャンしたこともあり、幹事さんには随分ご迷惑を掛けてしまった。そういう気持ちの推移が一人旅のときにも起きる感じがする。それでもとにもかくにも京都に着いた。京阪三条駅近くで京都市営の古い集合住宅を見つけて、写真を撮った。猫がいて、番号が振られた倉庫が並び、渡り廊下の脇に植えられたみかんに実が生り、赤い実をつけた木があり、木漏れ日の影が揺れていた。こんなのは京都に観光に来ているうちに入るのか。どこでもいつもと違う場所に、わたしの好きな被写体があれば気持ちが盛り上がってしまう。京都らしさは特にない集合住宅だ。昼には親子丼を食べた。夜には京都に来ると結構な頻度で行く煮込みの店のカウンターで日本酒をちびちび(一合飲み切れず)しながら、天然鰤塩焼きやら旬野菜やらを食べた。野菜の中はイチヂクがあって、それがちょっと彩りで美味しかった。食べ終わり満腹となり外に出ると、夜だった。京都に来るとたくさん歩いてしまうのは何故だろう。一月も掛けて読んでいた村上龍のMISSINGをやっと読み終えた。本がひとつ終わる。次の新しい本に移る。その隙間にほっとする気持ちが無くはない。本を読むことだって私の嗜好で好きなことだけど本を読み終わるとほっとするのだ。そうだね、旅に出るとはそういうことかもしれないね。夜更かしして店に流れる、すなわち自分で選んでいない音楽を聞くのは楽しいと思う。夜が長く、一日が26時間くらいあればよいのにね。旅に出てるときにはそんなこともよく思う。いい旅をしよう。

 今日の写真はスマホで撮ってます。

これだって一枚の月食写真

 会社帰りの環状八号線道路の歩道や歩道橋の上に、二人三人、ときには五人くらいの仲間で、空を見上げている人がいた。スマホで写真を撮っている人も大勢見えた。最近の四種類くらいのレンズを装備し、ディープラーニングで賢くなった画像処理技術で、きれいな写真をスマホが作ってくれるのだろうから、こんな写真よりはるかにちゃんと月が撮れているに違いない。

 せめてセンサーサイズ1インチのズーム倍率25倍、望遠端焦点距離がフルサイズ換算600mmのカメラを持って出れば良かったのだが、家を出るときは月食があることなど忘れていて、いつもの4倍のコンデジ(発売後10年は経っていないけど5年は経っている)をデイバックに入れておいただけなので、いろいろ調整してもせいぜいこんな写真しか撮れなかった。だいぶトリミングをしています。明るい部分の月の模様が写るようにすると、赤銅色の部分が黒に紛れてしまう。

 帰宅してテレビでニュースを見ると、赤道儀にカメラを装着したり三脚に超望遠レンズを載せていたり、それはもちろん素晴らしい天体写真が撮れそうな人々のニュースが流れていた。

 まぁだけど、いつも通り出勤して、いつ戻り四つか五つの会議を聴講したり発言し、夜になり、東の空の月食が始まる前の満月が美しいなと思い、いよいよ欠け始めると、誰かが月を見て「欠け始めてる!」と言うと、なんとなく仕事の手を休めて、四人五人と仲間が使われてない会議室に集まり窓から空を見上げる。写真で見る赤銅色に見えないね、等々、なにかワイワイ話して、また仕事に戻る。持っていたいつもの4倍ズームのコンデジでこの写真を撮ってから、まだ残業を続けている若い人たちに「おさきに!」と言った。

 そういうのがこの写真にまつわる私的なこと、今日のことで、そういう日常のなかに月食という特別なことがちょっとだけ入り込んだ一日があったと、私はこのたいしたことのないこれだってまあ月食だよね、という写真を入り口に、未来のある日にも思い出せるとしたら、それは素敵なことだろう。

犬を飼ったことがないけれど

 いつものように朝5時前に起き、自家用車で都内まで出勤。夕方、早目に帰宅する。今日は写真を撮らず、いや、一枚か二枚、環状八号線で正面の雲が朝焼けで燃えたから、赤信号で停められたときに撮ったのだった。しかしたいした写真は写っていない。夜、こうしてまた、むかし撮って、使うこともなくただHDDに入っているだけの写真を見直す。同じ11月ということを取っ掛かりにして。2012年の11月文化の日、葉山の美術館近くの磯に行った写真に上の写真を見つけた。画面下半分はもっと暗かったから、フォトショで少し持ち上げた。なんだか寒そうな日だ。別の駒にはたくさんの鳥が海の上を集まって旋回してる写真があった。集まってこれから海を群れで渡って行く鳥の柱だろうか。ここ数日暖かくて穏やかな日が続いているから、同じ11月の十年前の写真を見ることで本当の11月の寒さを見つけた気がする。

 犬を飼ったことがない。子供の頃に住んでいた父が勤めていた総合病院の社宅、木造平屋の二軒長屋の隣のWさんの家に、白いコリー?がいた。名前はマリ。よく吠える犬で、私はマリが怖くていつもおよび腰だった。および腰なのにマリとお手をして頭を撫でている写真があったと思う。もしかするとこのブログの過去記事にその写真を載せているかもしれない。父が撮ったモノクロのフイルム写真だ。

 この写真の飼い主の男と二頭の犬を見ると、男と犬のあいだの・・・信頼関係なんていうと安易すぎるな、多分・・・言葉が見つからないけれど、写真を見ているだけでなんだか憧れてしまうような関係が見える気がする。このあと冬が来て、北風が吹いて、海が荒れて、寒気が来ても、たぶん大丈夫。そういう感じ。

ラジオで聞いたこと

 5年振りか、もっと経っているかもしれない、久しぶりにフイルムカメラをこの10月に使ってみました。36枚撮りフイルムを5本撮り終えて、まとめて現像だけでなくデータ化もお願いして、昨日、そのデータをダウンロードしました。上と下の写真は、大磯町の駅近くにあるカフェ(夜は飲める、定食もある)で撮りました。フイルムはコダックのISO400の36枚撮りネガカラーで、カメラはライツミノルタCLで、中国製と思われる安価なライカL39マウントをライカMマウントに変換するアダプターを介して、キヤノンのスクリューマウント時代の50mmF1.4で撮っています。アダプターが安価だったこともあり、バックフォーカスが正しく出るように、二つのマウントのフランジ距離が制作されているのか不安だったのですが、開放でもピントはちゃんと合っているようです。とは言え、やはりこれは撮るときに「試写」って気分もあるし、マニュアルフォーカスとマニュアル露出であれこれ考えたりするために時間が掛かるしで、なんとなくスティルライフ、静物の写真になりがち。ま、そんな感じですが、もう五本くらいフイルムが買ってあるので、ときたま使ってみようと思っています。

 ラジオが写っている。いまも自家用車で会社まで運転している早朝にはカーラジオを聞いて行くことがある。NHK第一放送の「まいあさ」で、ニュースと天気予報と、全国各地にお住まいの一般から募ったレポーターのうち二名の方からその地方のトピックスを聞くコーナーがあり、週を通してひとつの健康にまつわる話を医師が解説し(五十肩についてとか、更年期について、など)、曲が掛かり、今日と言う×月×日と同じ日に過去にあった出来事が話され、メールが読まれる。復路はUSBやSpotifyで音楽やポッドキャストを聞いてくることが多いのですが朝はラジオが多い。

 ラジオに(テレビにではなく)かじりついて一生懸命スポーツの生中継を聞いて一喜一憂したことも多々あった。1960または70年代の冬のオリンピック大会でジャンプ競技だったかスピードスケートだったかなの放送を深夜に布団のなかで小さなボリュームのラジオに耳をくっつけて聞いていた。野球はラジオでも状況がよくわかったがJリーグが始まって、最初の頃はラジオで試合生中継をしていたけれど、あれはもうなにも伝わらないですね。ただもちろんライブでいま試合があって、大勢が試合に沸いているという臨場感はそれでもわかった。

 中学生高校生のときには当然のように深夜放送を毎日毎日聞いていた。

 いちばん覚えているのはもっとずっと前のケネディ暗殺のニュースで、朝のラジオのニュースで父が東芝製のトランジスタラジオで聞いて、驚いて話してくれた。私は6歳だったのにいまでもはっきり覚えている。覚えているのは、そのときに自分が見ていた朝の明るい陽射しが庭に降り注いでいるのどかな休日の日常風景だ。調べると現地時間の金曜日の真昼間がケネディ暗殺事件の起きた時刻だったから、それは日本の朝早くだったのだろうか、少し時間差があり、例えば朝の7時のラジオで父が聞いたのだろうか。

 ユーミンにジャコビニ彗星の流星群が起きなかった日のことを歌った曲がある。あの晩、このブログに以前も書いたと思うが、ナショナルのクーガーというでかいウーファーを積んだトランジスタラジオを持って徹夜をして友だちと二人で空を見ていたが、歌でも歌われている通り、流星群は見えなかった。深夜を通じてラジオもニュースを流していたと思う。どこどこのだれだれさんに電話をして、流星は見えないねえ・・・なんていうライブな状況報告だったのだろう。

 ラジオは何万人、何十万人の人が同時に聞いているけれど、なんとなくスタジオで話している一人または数人の人に、私だけが加わって、ひっそりと話題を共有しているような親近感を錯覚するようなときがあって、それがいいのだと思います。

 

納屋からはじまる思い出

 写真を撮るとき、被写体に垂直水平のある建物などの場合、カメラのファインダーに表示される垂直水平ガイダンス表示をけっこう気にしてしまう。ちゃんと正対していないとガイダンスに合わせても水平線は傾くけれど垂直線はちゃんと出るはずだ。建物は見上げることが多いからどうしても上がすぼまる(この場合は仰角が付いているから垂直は崩れるが画面の中心の縦線は真っ直ぐ傾かずに置こうとする)。世の中にはシフトレンズというのがあり、それを買おうとまでは思わないが(お高いし、基本三脚で使用だし)それが必要な写真があることはよくわかる。このブログに載せる写真も傾き補正とときどき台形補正を、これはフォトショの画像補正でかけることもある。さて、だけどこの写真のように、建物自体が歪んでいると、どれが水平垂直かわかりませんね(笑)。写真を撮るときに、ガイダンスに従ってちゃんと水平垂直を出していたと思うから、たぶんこれがこの建物の姿なのだろうな。納屋です。納屋も建物と呼んでいいのかわかりませんが。納屋にしては大きいかも。村上春樹の「納屋を焼く」で焼かれる納屋よりは大きいし場所も危ない、と思うけど、これは短編小説を読んで自分が思い描いた、小説のなかで焼かれる納屋の印象に照らし合わせているだけだから個人の感想で、こういう納屋があの小説では燃やされるんだよ、と感じる方もいるかもしれない。

 茅ケ崎市の南湖院太陽の郷公園には南湖院がサナトリウムだった頃の病舎が一棟保存されていて、あとは小さな池があったり藤棚があったり緩やかな高低差がある芝生が広がり、いろんな木々もある。ひとつ前のこのブログに載せた夏ミカンの木もある。松ぼっくりをたくさん落としていた背の高い松もあった。この納屋はその公園を維持管理するための職員の方が使う納屋だと思われる。なかになにがあるのだろうか?芝刈り機かしら、脚立もあるかもしれない。

 小学生の頃に読んでいた少年少女向けの冒険小説には、本の冒頭によく地図が載っていた。あの地図があることによって読書したい!という気分がより盛り上がった気がします。そして地図に憧れた私は、たかだか四畳半の自室の地図を描いて遊んだものですね。誰かとの遊びではなく一人でひっそり。部屋のどこになにがしまってあるか、ではなくて、なにが隠してあるかだし、単なる部屋の机ではなくて基地指令室の長官机・・・といった妄想をしながらの地図だったんじゃないかな。

 住んでいた木造平屋の長屋には玄関と勝手口の二か所の入り口があり、勝手口の前にはまさに物置(納屋)がありましたね。トタンの。そこには風呂を沸かすための薪が置かれていた。薪は注文すると軽トラで配達されて、それを父はさらに鉈で細くしてからくべていた。昭和45年頃まではそうやって風呂を沸かしてて、いまでは考えられないかもしれないけど入浴はだいたい二日に一度だった。二日に一度にせよ、毎回毎回薪で風呂を沸かすのは大変だったろうが、それが当たり前の世の中だと、だれも大変だとは思わずそういうもんだと思っていたのだろう。

 薪のほかに自転車も雨ざらしにならないよう、その物置小屋に置いていた。なんインチの自転車だったのかは忘れたが子供自転車。雨の日には、ときどきその小屋の自転車の横に居場所を作り、本を読んで時間を過ごしたこともあった気がする。木造平屋は父が勤めていた総合病院の社宅だった。裏木戸から総合病院の結核病棟の裏に出られた、そこから渡り廊下を通り、外来病棟や動物飼育棟や検査室やレントゲン室など敷地内に点在する建物に歩いて行けたし、その敷地にはテニスコートと花壇と運動広場、さらにそれらを仕切るところどころに椎の並木があった。それこそいまでも地図に描けるくらいだ。たぶん病棟は五棟くらいあり、あいだを屋根のある渡り廊下が繋いでいた。

 裏木戸から子供自転車で出て、そういう総合病院の敷地内に自分だけの回遊経路を作っていた。経路の途中に仮想の駅を作りそこでわざわざ自転車を停めて、頭のなかで駅の放送を流していた。

 いつもいつもこんな妄想の一人遊びをしていたわけではないですよ。草野球や基地ごっこや木登りに興じたものです。納屋からはじまりいろいろ思い出にふけってしまいました。やれやれ。