猛暑


 昨日の21日水曜日と、今日の22日木曜日の二日続けて真っ昼間に社用外出のために都内を移動。特に昨日はものすごい暑さだった。あれー、汗ってこんなに流れ落ちるものだったっけか?と、自分の体から流れる汗の量にすっかり驚いたりしていた。

 私は既にニッポンの夏を50回以上も越してきていて、一つの夏に数十日の時間が含まれて、その中には必ず夏休みや、休日があって、そのときどきにはいろんな思いを経験しているわけだけれど、では一年前の夏にはどういうことがあったか?二年前は?三年前は?五年前は?十五年前は?二十年前は?三十五年前は?とか、何年前であろうが夏の具体的なエピソードはあんまり覚えてないし、まして何年前かというような時間軸上では整理されていない。流石に昨年の夏のことくらいはまあいくつか覚えているけど。。。

 いくつか覚えている夏のエピソードも、なんか写真に残っている映像を後日になって何回か見返しているうちに記憶を補強しているようなこともあって、写真がなければ覚えていない。あるいは、写真のせいで忘れてしまうべきことも覚えている、というか、忘れられずに覚えさせられているといった感覚もなくはない。

 写真もそうだけど、他にも誰かとの会話とか、目に映るものとか、聞こえてくる音楽とか、読んだ文章とかをきっかけにして、忘れていた記憶が呼び覚まされるが、それはまさに泡ブクのようで、ふっと浮かんでは消えてしまう。消えてしまわないようにするにはどこかにメモをするとかして再生した記憶の消失を防ぐ手立てが必要かもしれない。が、そんな風に「ふっと浮かんでは消える」ということが頭の中でぼーっと続いている状況が人間としての正常なありようで、過ごしてきた時間が長い人ほど、その「ふっと浮かんでは消える」ことの時間に占める割合が増すのかもしれない。

とか考えた。

 19日の海の日の午後、家族のSを乗せて自家用車を運転していたときに、たまたま車のHDDに記録されているもののほとんど再生されていない音楽データを何の気もなく表示させていたら、サニーデイMUGENというアルバムが出てきたので、ふと聴いてみたくなって再生した。そうしたら、Sが、このアルバムを聴くと車に乗ってフクロウ館みたいなのがあるところを走っていた場面を思い出すと言った。フクロウ館というのは、富士山の西側の富士宮道路とかを北上していったあたりにある施設で、子供が小さいころに一度行ってみたいなんて話しもあったが、結局行かないままだった。たぶん、富士五湖のうち西湖あたりにあったオートキャンプ場に夏に行ったことがあるから、そのときに確かに車でフクロウ館の横を通過したのだろう。そしてそのときに、MUGENのアルバムをカーステレオで流していたのだろう。きっと今の車の前に乗っていたステップワゴンで、ステップワゴン時代はまだカセットテープで音楽を聴いていたからMUGENを録音したカセットが常時車に置いてあったのだろう。
 ということをきっかけに、そのキャンプは二泊か三泊か、その間の一日に勝沼の方に出かけてぶどう狩りをしたことがあったのを思い出した。ふっと浮かんだ記憶だけど消えない前にこうしてここに書いているわけです。
 巨峰の一房を切って、両方の掌を並べた上に置いてみたら、思いのほか重かった。そして、その重さだけでなく、掌に当る粒の温度とか弾性とか、そういう触覚も含めて、それが植物の果実であるにもかかわらず、なぜか動物の赤ん坊を掌に載せられたような感覚がして、その感覚がとても愛しかった、ということを連鎖的に思い出したのだった。

 なんていう風に夏の思い出はふっと浮かんで消えて、まためちゃくちゃ暑い夏が始まっている。

マイ・フェイヴァリット・シングス(+2)

マイ・フェイヴァリット・シングス(+2)

あるいはこれは八年か十年か前の夏、宍道湖に面した公園で落陽をずっと眺めていたことがあったのだが、そのときにウォークマンでこのアルバムのマイ・フェイバリッド・シングスのコルトレーンの演奏を聴いていたこととか。モード奏法のジャズは基本的に夏に似合う、なんてのは言いすぎでしょうか?

 なんて書いているうちに、あれもこれもと、夏の具体的エピソードが出てくるようになって、一番上の方に書いた「あんまり覚えていない」というのも、あんまり覚えていないということもないようだ、に変更すべきかもしれない。