すりガラスに映る

 
 本日の夜にいよいよ写真展の搬入の予定。さきほど14時ころに今晩搬入に持って行く釘とかカナヅチとかドライバー、等々の荷造りを終えて、あとは出かけるだけになった。これで事前に家で準備することが終わった。何かやり残したことがありそうな感じに捕われているのだが、部屋の真ん中に立ってぼーっとあたりを見回しながら、そのやり残したことを考えるが具体的に何も浮かばない。やり残したことはないかもしれない。
 部屋を見回していたら、もう十年くらいも前に、とある方からいただいたリコーフレックス?が乱雑にモノが積み重なった机の片隅に置いてあるのが見えた。
 長らく6×6を撮っていない。四、五本使わずに残っていた120フイルムの期限はいつのまにか切れている。それでもまた使ってみようという気持ちはどうやら沸いてこない。
 ただ、二眼レフのすりガラスのピントスクリーンに映った像というのは、すぐ目の前に本物の光景があるのにもかかわらず、実景よりずっとセンチな光景に見えるものだということを「知っている」ので、ちょっとファインダーを開いて家の前のバス通りをファインダー越しに眺めてみた。それから、そのセンチな像を撮ってみようと思い立ち、デジカメを持ってきてスクリーンに映った像を接写し始めたらちょっと面白くなって、南側の住宅地側も撮ってみた。それが、この、写真です。

 知人が「情報量が少ないゆえに想像力をかきたてる効果」という言い方で、トイカメラ写真のような技術的にはチープな画像の「効果」を説明したことがあって、なるほどねえと思った。ただ、それではなぜ、そういうチープな画像は想像力をかきたてるのか?その理由まで問われると、いつもよく判らなくなる。写真が発明されてから、たかだか160年だか170年くらいで、たったそれだけの時間のあいだにも人類には古い写真の特徴、すなわち「セピア」とか「解像度が低い」とか「周辺が暗い」とかが刷り込まれてしまっていて、そういう画像を見ると、古くて懐かしくてほっとするいというレトロ支持的な感情が湧き上がるようになっているということ?まさかね。

 そもそも何故むかしのことはほっとするという感情で支配されることが多いのか?それは時が経つことでリアルな感情が消え、感情の修復みたいなことが行なわれて(記憶の再構築でもいいかも)喜怒哀楽は全て懐かしさへと置き換わるような面があるのかもしれない。あるいはそのときに抱えていた問題点が時とともに解決したり変容したりして、もう問題ではなくなっているからかもしれない。

 で、話はがらりと変わるけど。
 テレビや新聞で入ってくる情報だけからいろんなことを判断しても、入ってこない多くの情報を知っている当事者は大抵「そうじゃないんだよ、実は・・・」と言いたくなることが沢山あるに違いない。だから簡単に糾弾したりは出来ないと思う。
 だからこれはテレビや新聞からの情報だけに基づく間違った認識かもしれない、と断った上で、原発問題で聞えてくることって、えっ!なにそれ?と思うことが多すぎる。
 例えば線量計の数が足りてないから数人で一つを使っているという報道があった後日にほかの電力会社の協力を得たりして今後は改善するというニュースが流れた。あるいは、現場で作業に当たっている方は不眠不休状態で一日二食の雑魚寝という劣悪な状況にいるとかのニュースも流れている。後手後手ではないか。
 一国の問題ではなくて世界的な問題になりつつあるのに、作業員数が不足しているとか線量計が足りないとか、一体何をやっているのかな?日本中はもちろんのこと、世界中の叡智と要員と装置と測定器と機材を、全て導入して、ニの手三の手を準備してあらゆるリスクを想定した準備をしているのだろうか?これは電力会社ではなくて国の姿勢だと思うんだけど。
 とかなんとか、ちょっといつもはここに書かないようなことを書いてしまった。