この話は既にブログに書いたかもしれない。
 大学の三年か四年のころに、愛媛大学に通っていた松山の友人(KとM)のところに遊びに行ったことがあった。五月連休のころだったようにも思うがはっきりとは判らない。松山城にのぼり、女子高の運動部がランニングしているのとすれ違ったり(どうしてこんな些細なことを覚えているのか!)、夜に自転車に乗って友人のオススメの場所に行き写真を撮ったり、ジャズ喫茶でエロール・ガーナーのレコードを聴いたり、友人が授業のある日には一人で私鉄電車に乗ってフェリー埠頭のある海辺の町まで行ってみたり、そんな風に四、五日を過ごした。まだ本州と四国を繋ぐ橋なんかなくて、宇高連絡船で高松に渡り、高松から気動車に乗って松山まで行ったのだ。ある日、友人のKとM、それに私の三人は徹夜明けのまだ暗い住宅街を歩いて松山駅まで歩き、早朝に駅前で牛丼を食べ、それから始発の電車(列車だったかも)に乗って宇和島まで出かけた。途中から三人とも席二つ分を使ってすっかり眠ってしまい、途中で目が覚めたら車両は高校生で満員になっていて、彼等にじろじろと見られていて恥ずかしかった。電車の中で、私のオリンパスOM-1、KのキヤノンFTb、MのニコンFE、をいじりながらカメラ談義をしたりもした。
 宇和島に降りたが、何か計画があるわけでもない。よく覚えていないのだが、アーケードの商店街で何か昼食を食べて、それから文房具屋でペンと便箋と封筒を買った、と思う。それらを持って、バス停へ行き、ちょうどやってきたバスに乗ったら、海沿いの小さな村落に着いたのだった。内海の入り江でほとんど波がないような海には小さな突堤があって、その突堤でKとMと私は、誰が言い出したのか?それぞれさっき買ってきたペンと便箋でそれぞれが思いを寄せている女の子に手紙を書いたのではなかったか?いや、そんなことをしたのは私だけだったのかもしれない。曖昧な記憶では三人みんなでそうしたように思うのだ。海辺には真珠貝のような貝殻がたくさん落ちていた。海は澄んでいて小さな魚が泳いでいた。この手紙を読んだ女の子は日本地図を開いてこの場所がどこかを確かめる、そういう場面を想像した。
 手紙を書き終えたあと、Kは突堤で眠ってしまい、すっかり日焼けした。彼が眠っているあいだ、Mと私は買ってきた缶ジュースの空き缶を突堤にぶつけてリズムを取りながら、ずっと歌を歌っていた。それはキャンディーズの曲ばかりだった。二人して、キャンディーズのメドレーだ!とかなんとか言って、歌ったのだろう。けれど果たしてそんなに詳しくキャンディーズの曲を覚えていたのだろうか?もしかしたら、宇和島駅前で何かの雑誌(当時よく売られていたギターのためにコードが書かれた歌謡曲歌詞集とか?)を買ったのだろうか?だいいちそんなに正確に何曲も歌ったのだろうか?記憶ではそうなっているけど、いま考えると、ほんの数曲を、知った歌詞のところだけ歌っただけだったのではないのか?とも思う。
【(追記)そうか・・・もしかしたらラジカセみたいなのを持って行って、キャンディーズの曲を集めたテープをかけながら一緒に口ずさんだということかな?うん、そんな気がしてきた。】
 とにかくキャンディーズの曲を宇和島からバスに乗ってたどりついた小さな漁村の突堤で歌ったのだ。手紙を書いたあとに。
 突堤からバス停までの間の細い道沿いに棄てられた車があってガラスも割れていて、雑草に覆われている。そんなのを写真に撮ったりもした。宇和島までバスで戻り、帰路は松山までも電車じゃなくて急行バスに乗ったと思う。以上、スーちゃんが亡くなったニュースを聞いて思い出したことであります。
「私の胸の奥の湖にあなたは、涙の石を投げた、愛の深さに怯えるの」(キャンディーズの哀愁のシンフォニーより)この曲のここのところが好きだったなあ。

 本日は須田塾の四月第四週組に三週から振替参加。雨模様。先生のコメント、その場ではすごく面白く聞けるのに、帰宅したいま、ほとんど覚えていない。残念。この記憶力の衰退を誰か直しておくれ〜。
 Cさんの隣の家の庭を見下ろした写真、土の庭は懐かしい。

 そののち、銀座の渋谷画廊というところで知人のYさんが参加している絵画展に顔を出す。絵画の自由で幅の広い様々な表現を見ていると、写真というのは限定的なところの中でごちょごちょやっているだけみたいに思ってしまう。これは今日の私が偏屈とか気弱とかそんなんではなく、いつもそう思うのであります。