こうき心20

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夜、なんとなくテレビを付けて、チャンネルを変えていたら、1978年に行われたキャンディーズのラストコンサートの番組を再放送していたので、最後の20分くらいを見てみたが、驚いてしまうのは、歌われる曲のほとんどをテレビに現れる歌詞を読みながら、ちゃんとメロディーに乗せて歌えるということで、若いころのことは覚えてなくてもいいのに覚えているものだ。もし人の記憶がコンピューターのような内蔵メモリのようなところに収められているのであれば、若いころはまだまだ空き容量がたっぷりあるから、それを充てにして「とりあえず記憶しておいてしまえ」といった機能が働いているようだ。しかしそういう頭の中に記憶のためのHDDのような領域があるといった認識は正しくないと、ちょっと前に読んだ福岡伸一動的平衡に書いてあったな。なんかシナプスのあいだの電流の流れ方の相対的な刹那の状態が記憶にかかわるみたいな・・・ぜんぜん違ってたりして。

大学3年か4年のときに愛媛大学に通う高校時代の友人を訪ねて松山市に行ったことがあった。私は名古屋で下宿していたときで、私もその友人も自宅(実家)は平塚市にあって、高校のころは平塚市の某高等学校の写真部所属だった。高校時代、写真部の仲間が集まって、イエスや古井戸やクイーンや吉田拓郎やエマーソンレイク&パーマーやかぐや姫のレコードを流しながら、ストーブの上に水を入れたやかんを乗せて部屋の乾燥を防ぎ、一人30分くらいの持ち時間で順番にひとつの引き伸ばし機を使って、冬の真夜中、暗室カーテンを引いた誰かの部屋で写真の引き伸ばしをやった。そのなかにその友人と私がいた。

 話がずるずると脱線してしまったけれど、松山に遊びに行った日曜日にさらに松山から電車に乗って、宇和島の方の小さな港町に遊びに行ったことがあった。たぶんこのブログにもその話は一回や二回は書いたのではないかな。そのたどり着いた港の突堤に座って、その友人と友人の大学写真部の友人と私はキャンディーズのヒット曲を歌っていたように思うのだ。あれは、ただなにの伴奏もないなかで歌っていたのかな。もしかして友人かその友人がラジカセを持って来て、キャンディーズのヒット曲ばかりをまとめたカセットテープでも流したのではなかったか。あるいはラジオ番組でたまたまその特集をやったのか。どうだろう?ちゃんと覚えていない。あの小さな突堤に座っていたときにキャンディーズを歌ったことだけは確かなはずだけど。

今日、東京都写真美術館写真新世紀展を観に行った。グランプリの作品はシャワーで像を洗い流した写真を目の前にして、そこに写っていたものがなんだったかを思い出しながら話すと言う動画で、記憶の曖昧さや、もしかしたら曖昧になって像があった写真と間違った指摘をしていたとしても、その頭のなかに現れている新しい元とは違うイメージこそが「間違っていない」記憶の凡例と言うかとはそういうもの、それが、その不安定さが大前提にあることの上に「覚えてい」るということが成立しているということをつきつけている。すなわちそう考えると容量のある記憶装置に格納されているわけではないと言う前述したこととも「感じ」としてしっくりくる。

だから今から40年以上も前の宇和島の波ひとつないような初夏の突堤でキャンデーズを歌ったときのことの映像を思い出しているリアルな「感じ」はあるものの、では言葉にして説明したり白い紙に鉛筆で描いてみろと言われても、心に浮かんでいる映像の「感じ」はこれだけはっきりしているのに、いざそうしようとすると何も現わせない、伝えられない、のかもしれないな。具体性を持って覚えている気になっている映像の記憶はそういう具体性を伴っているという気分だけで成り立っていて、実際のところその具体性に基づいて再現してみよと言われると、実際には気分は形骸でほとんど覚えていないのではないか。しかしその気分が残っていることが大事で、それこそ記憶の本性なのではないか。

ちょうどキャンディーズの最後のコンサートが行われた78年ですかね、その一年か二年くらいあとに撮った写真を、そんな番組を見たこともあり見直してみたら、いままでこんな写真を撮ったことを知らなかったのだが、上の通り、新幹線が写った多摩川の写真があった。この新幹線って数年前に完全に引退したときにちょっと鉄の方々が騒いでいらっしゃった0系の車両じゃないのかしら。

下の写真も面白いのは、テレホンカードの自動販売機、公衆電話が全台使われている様子、ダンヒルのロゴが書かれた煙草の自動販売機がありふれた感じで並んでいる。いま煙草の自販機はほとんど見かけない気がする。もちろんテレホンカードとか公衆電話はほとんど利用されなくなっている。往時の百分の一か千分の一かそれ以上かな?公衆電話から上がる売り上げって?

それで下の写真で判らないのは、右の方に写っている箱型の装置というか小屋というか、スーパーコンピューターとかボイジャーとかユニットV3とか書いてあるように思われるのだけれど、では何だったのかが判らない。

今日都写美に行く前には渋谷のBUNKAMURAに百人の写真家による東京好奇心と言う写真展を見てきた。ちょっと散漫な印象でサムネイルと言うかカタログを見ていた感じだったが、もしかしたら初めてそう言うことをやってみたスマホで解説を聴くと言うサービスが、いちいち解説の時間が長くて鑑賞のタイミングと上手く波長みたいなことを合わせることが出来なかったからなのかもしれない。目の前にその写真があって、それを解説が「美しい」と言うのは感想の強制ではないか。気に障る。途中から聴くのをやめたけど。

BUNKAMURAから恵比寿へ移動する途中に、渋谷の駅前の交差点を渡った。一番下の写真です。これ40年経ったらどう見えるのかな?マスクをしている人ばかりなのが、2020年だけの風景になっているだろうか。

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