須田一政写真塾六月例会


 須田塾六月例会に出席。このブログにも何枚かそのシリーズを載せたスローシャッターによる写真を四十枚くらい2Lサイズにプリントして持って行く。先生および塾メンバーからいろんな感想をいただく。TWさん、戯言だと思って聞き流してください、とおっしゃったあとに、スローシャッター写真に写った岩や砂浜や海がそこに確固としてあるのに対してぶれて不明瞭に写った人間は蟻のように儚く見える、というような感想をおっしゃる。Uさん、私はその絵を見たことがなく不勉強ですいません、マークロスコの絵画がいろんな色を載せた結果の黒に行き着いたものの反転映像みたいな白に見えるとの感想を下さる。須田先生は青幻記という映画(調べてみたら1973年の映画だった)を引き合いに出して感想を下さる。
 NCさんの写真に関して、須田先生のコメントを携帯電話にメモする。女性探偵が撮った写真、男が見えないところが写っている感じ、など。私はNCさんの写真への感想を求められ、自分がパワーがあるときに聴きたくなる音楽で、自分が弱っているときには聴きたくない、聴くのにパワーが必要な音楽のような写真だと感じた、などとしゃべる。
でも、最近須田塾でコメントを言うときに、自分でなんかそれらしいことを適当に上手くまとめてしゃべっている気がして、本当にちゃんとエネルギーを使って人の写真を見ているのだろうか?と思うことがある。

 写真を見るときも、あるいは本を読むときも、私は、最近、そこに書かれた文章を本当に味わったり楽しんだり出来ているのだろうか?と思うことがある。食事に例えれば、よく噛みもせず、味わいもせず、口に入れたものをすぐに飲み込んでしまっているような。
 近しいティーンエイジャーの女性が、学校の課題で谷崎とか漱石とか田山花袋とか樋口一葉とかを読んでいる。谷崎の小説を読んでケラケラと笑っている。SMとフェチとオタクの世界の描写が「笑える」と言う。あるいは漱石の「それから」はニートを応援しているようだ、と言う。自分はそんな風に楽しんで本を読めているだろうか。読み方の自由さを失って硬直しているように思える。
 例えば茅ヶ崎市開高健記念館に行くと、そのときどきの特集に応じて、取り上げられている作品の生原稿などが展示されているわけだが、その何かの小説やエッセイの一部である一枚の原稿用紙に書かれた太く丸い字を読んでいると、それが作品のほんの一部なのにもかかわらず、文章の魅力に惹き込まれる。開高健に限らず、鎌倉文学館に常設展示されている作家の資料とかでも同様な感じ。それなのに、その原稿を見た小説なりエッセイなりを買ってきて読むと、展示原稿を読んだときの感動を覚えない。それって、私が今読んでいる本に対しての熱意や興味が「生半可」だから、本当に味わえる楽しみを自ら放棄してしまっている、損をしてしまっているようにも思えるのだ。
 NCさんの写真は、いまでも(今日の14時に見てから既に七時間経っている)具体的に何枚も思い出せるから、上に書いたような適当な感想を言ったけれどそんなことよりも言葉は「後付け」だとしても、何かスルメのように残っている。
 いや、NCさんの写真だけでなく、亞林さんの写真も、HUさんの写真も、今日見た全員の写真を七時間後の今時点で私はよく覚えている、といま気付いた。まあ、七時間だとしたら当然ってことか・・・?何を書いているのか・・・

 数週間前だったか初台のオペラシティアートギャラリーでホンマタカシニュー・ドキュメンタリー展を見た。いくつかの作品の中でWidowsというどこか海外のとある街に住む未亡人の現在の写真と、その未亡人のアルバムから拾った若いころの写真(ファウンドフォト)を、合わせて作られた作品シリーズがあった。このブログにも何度か書いたが、時間を経た写真が鑑賞者にもたらす「古きよき日の印象」「幸せだった思い出を懐かしく思う感情」みたいなことはなぜ起きるのか?その未亡人が学生だったころに撮られた写真を、その同じ時代にリアルタイムで見ていたら「古き」とか「だった思い出」とか「懐かしく思う」とかいう気持ちは起きなかったのか?それとも写真とは、ものすごく時間軸を加速してしまい、あっと言う間にそういう色合いを身につけるという効果があるのか?とかなんとか考えてしまう。
 それらの写真は、モノクローム写真であったり、カラーの場合でも今の写真に比べると色再現はチープだったり、そういう画像再現の現代的評価基準のレベルみたいなことで見れば大きく劣っている。そういう劣ったものが、ここ数十年で大幅に改善されてきたことを、いま生きている我々は知っている。そういう技術革新の時代経過を知っていることが写真を見る上で得られる印象を形作る大きな要素になっていることは多分間違いないのではないか。だとすると、そういうことを「知っている」我々が、そういう印象を鑑賞者に与えるテクニックとして故意にそういう画像を作ってしまえば鑑賞者の感情をある程度コントロール可能で、だからいまどきのデジタルカメラにはトイカメラ風みたいな数々の画像色づけモードがあって、それを楽しめる。しかし、これから二十年か三十年か四十年か経って、いまのデジカメの画質しか見ずに育った人たちが、2050年にホンマタカシのWidowsを見たら、どう思うのか?いま私がそれを見て感じた上述のような「懐かしく思う」みたいな感情と同様の感想を持つ人はいなくなっていて、そのかわり今は予想できない新たな見え方に変わるに違いない。それはそれでその時代の同時代性であるから写真は写真作品が撮られたり作られたりしたときのものではなくて、鑑賞者がその写真を見ているときに結ばれた関係性そのものが写真である、ということになるのだが、それはまあここでは主題ではない。
 写真の見え方に上記の技術革新の軌跡を織り込み済みで見るという前提が少なくともいまは出来ていて、それは数十年後に振り返ると、写真を見る上で大変に写真を楽しめる環境が整っている時代と思うのかもしれないな、などとふと思ってみたりもする。
 しかしそういう技術面だけではなくて、もちろん被写体としてそこに写っている人々の服装とか髪型とかも「古めかしく」て「最新の流行ではない」ということも写真から「懐かしさ」を感じる大きな要素に違いない。いま、海外でどうなのかは知らないが、日本ではTシャツをジーンズなりのパンツ類に「イン」しない人が「イン」する人に対して8:2か9:1か判らないが圧倒的に多い。いや、TシャツだけでなくポロシャツでもBDシャツでもなんでも。しかし十年か十五年くらいまえの写真を見ると、ほとんどの人が「イン」している。一体いつ、人々はTシャツやポロシャツを「イン」しなくなったのか?あるいはあれだけ流行っていたルーズソックスはいつ急激にすたれたのか?
 そういう流行の変遷は、常にあり続けるだろうから、仮に写真の技術的評価における画像の再現性が高いレベルで平均化してしまっても、そういう流行変遷を前提とした見方は継続されるだろうから、やはり写真には「懐かしさ」は付きまとうものなのかもしれない。服装や髪型だけでなく、街にも車にも、そういう変遷があるから。
 それでは、自然を写した風景写真やヌード写真はどうなのか?ヌード写真にはポーズの流行があるかもしれないし、ヌードモデルに求められる体型の流行があるかもしれない。風景写真には、どこをどう撮るか?ということに関して、個人レベルの革新があったとしても結局は同時代的流行(決定的瞬間からニューカラー派的写真へ、みたいな?)があるかもしれない。
 さてこの文章はつらつらと書いていたら、一体自分が何を言いたいのか判らなくなってしまったな・・・
 今日のように写真をたくさん見ると、例えばこんなことを考えたりしてしまうという、これこそ戯言なのです。

 須田塾のあと、本鵠沼に行き、余白やさんの屋台古書店でカラーブックス「世界の船」昭和45年発刊を購入。上の写真は、当時の豪華客船フランスを紹介しているページの接写です。そんな船があることは知らなかったが、せっかくなのでちょっと調べてみたら(こういうのは便利としていいのか判らないが、とにかくネットの時代だからちょちょいと調べることができる)1961年に建造されたこの船は2003年にボイラー事故を起こし2006年に廃船になっているそうだ。いまフランスの海洋美術館だかではまさにこの船の企画展が開かれているらしい。
 ああ、そうだった、須田塾で写真をたくさん見たあとに、カラーブックスで「古きよき日」のカラーバランスがむかしの絵葉書のようにくずれた写真をたくさん見て「懐かしく」なったから、上に書いたようなことを考えていたのだった。
 余白やさんには水出しアイスコーヒーを飲ませていただく。ごちそうさまでした。