見立てること

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二十歳の頃、下宿していた名古屋市で、おなじくその頃おじさんの仕事の都合で名古屋市に住んでいたおばさんに誘われて、クラシックのピアノのコンサートを聴きに行ったことがあった・・・ような気がするが、あれは名古屋ではなく平塚にいた高校生の頃のことかもしれないな。ピアノの演奏を聴きながら、その音楽から自分の頭のなかでは、例えば春の日差しのなか木漏れ日の揺れるベンチに座って近くの渓流から流れの音が聞こえているといった、聴覚が捉えた音楽から視覚(木漏れ日)や触覚(陽射しの暖かさ)や別の聴覚(水の流れの音)に見立てている。須田一政写真塾に行っていたころ、どの写真だったかもうわからないけど、私の写真を見て、須田さんが「ファーゴ」とか「パリ、テキサス」と言った映画のことや、ライ・クーダーという音楽家の名前を挙げるようなことが多々あった(もちろんほかの方の写真を評するときにもそういう映画や音楽のことを持ち出すことが多くあって)。小説を読んでいても、そこに書かれている物語とは別のところで複数の本に共通にある「その作家」の雰囲気があって、それを今度は音楽に例える感じを持つことがある。ちょっと元気のあるときでないとサザンオールスターズ勝手にシンドバッドのような怒涛な感じのNの小説は読むのにエネルギーが必要で、いまは読めないな、とか。

すなわち何かの感想を表すときには、そういう見立てのようなことが必ずといっていいほど起きるのかもしれないが、そういう見立てという、言葉を経由して他の感覚に変換するということは鑑賞の一番最初に起きるピュアなことからすでになにか削れれているかもしれず、そんなことを思う前の段階を大事にすべきかもしれない。でもそんなことを思う前の段階がどこなのか自分でもわからない。

白い紫陽花がたくさん咲いているところで撮った写真がありました。これを撮るときは背景も真っ白になるように位置を勘案して、なにか甘いスイーツを思い浮かべていたな。きっとこのときにはティラミスかなにかを食べたいと思ったのかもしれないぞ。