ブックフェアで買った本から あるいは みなとみらい


 朝、6時半に起床して、昨日のTOKYO ART BOOK FAIR 2011で買ってきた本を読んだり眺めたりしてみる。「SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS 編集ワークショップ2011」のブースで購入したART FOR ALL8 という雑誌(でいいのかな?)をぺらぺらとめくる。

 ときどきベランダの手すりにからすが飛んできて、そこでカァと鳴くわけではないのだが、手すりの上を動いていくときにカタカタと音がする。それがうるさい。ベランダの網戸を開けてもふてぶてしく飛んでいかない。そこでベランダに一歩踏み出したら億劫そうに飛んで行った。

 あるいは、某氏に1976年にエアチェックしたラジオ番組「気まぐれ飛行船」(片岡義男と安田南がDJだった。いまではラジオパーソナリティとか言うんだっけ)のテープをダビングして送る約束のまま、ずーーーっとやってないので、それをやろうかと思ったのだが、いざとなったら聞き出してしまい、コピー作業まで進まない。

 そんなこんなで中断しつつも、上記雑誌を読み進む。雑誌にしても小説にしても詩集にしても随筆にしても、それを読むときに、読む側の私にどれだけの文章吸収/理解力があるか?により楽しめるはずのものも楽しめないことがある。それも、持っている能力というより、それを読んでいるときにも雑念や考えごとに頭の活動のあるパーセントを奪われているとは思うが、そのパーセントをどれだけ少なくして読書に集中できているか、によって文章をどれだけちゃんと把握したかが決定されてしまう。雑念パーセントが高かったがゆえにあまり面白さを感じないまま読んでしまった本があるに違いなくて、それは本に対して失礼だし、著者に対しても失礼だし、自分としては損をしてしまっているのだよなあ。読書理解のために持っている能力自体もたいしたことはないとは思うが、その能力に対して極めて低いパーセントでしか読書が出来ない状況が、昨今ずっと続いている気がしている。
 しかし、普通の本屋で買った雑誌ではないということや、この本を作った人と短時間だけだけど話したことなどもあってか、それとも本の作りがいいからなのか、ART FOR ALL8はちゃんと理解度高く読めた気がする。
 例えば小見純一という方のインタビュー記事で、その方が「まとまろうみんな、みたいな声が高くなっているが、大事なのは、ひとりでもだいじょうぶ、ということの方だ」という主旨のことを言っていて、ふーむ、と唸ったりした。
 ANALOGUE ERA AGAINという記事では、最近になってアメリカのインディーズのミュージシャンのあいだではダウンロード音楽配信ではなくて、アナログレコードやカセットテープで音楽をリリースすることにこだわっていることなどを知る。そうでないと「本物ではない」そうだ。へぇ・・・と思う。

 それで雑誌からふと顔を上げて、白い壁やら床に散乱している本などを眺めながら考えた。人というのは「使い古された痕跡が残り蓄積していったものに愛情を覚えるのではないのか?そのように時間とともに変化するものだけを愛せるのではないか?」ということだった。さらには、写真を撮るべき被写体もそういうことが撮られる条件なのではないか、ということだった。

 そのあと、また気が散ってしまい、昨日の須田一政写真塾(須田塾)でI上さんが暑いから自宅の中ばかりで写真を撮っていた、と言いつつ、その室内写真を披露したのだが、それが、それどころかまるでカリブ海あたりの常夏の島へ旅行でもしてきたかのように見えて驚いたことを思い出し、私もちょっと部屋の中の写真を撮ってみようと思い立った。小学生のときの「科学」(雑誌名)の付録だった(と思う)月球儀をアップで撮ったり、本棚に並んだ写真集の背表紙を撮ったりしていた、そのうちに、五年か六年まえにプリントして壁にピンで止めてあったインクジェット出力写真がすっかり色あせているのを見つけて接写していたら、さっきまで考えていた上記の「写真を撮るべき被写体もそういうことが撮られる条件なのではないか」と思ったことに戻ってきて、私が工事現場や広場や街の植物にカメラを向けることが多いのも、あるいは街行く人々をスナップするのも、同じことで、工事現場は変化していくし、広場ははえた雑草は伸びでもある日刈られ次に重機が入り住宅が出来るという変化をするし、植物は街中にあるものも自然の中にあるものも常に成長するとともに四季の中で変化していく。
 だけど・・・と更に考える。そんなことを言い出したら、目の前に展開する全ての光景はその一瞬と「ほとんど同じ」状態は継続するものの、正確には「全く一致する」ということは少なくて、どこか街中の建物でも、天気(陽射しや空気の澄み具合や雲の状態)や季節によって刻一刻と変わっているわけだし、さらに、家の中にある壁とかにしても、年サイクルで記録していけば徐々に汚れていっている。即ち、きまじめに指摘してしまえば、変化していないものなどない。
 ただ、その変化の時間微分みたいなことを考えると、例えば1/4000秒とか1/8000秒の中でも変化してしまうスポーツの瞬間みたいなその微分値が大きい瞬間から、上記の人工光源のもとにある壁などのように、厳密ではなくて感覚的に言えば「変化していない」「微分地は限りなくゼロに近い」まであって、微分値が高い瞬間をより大事にするのが報道写真やスポーツ写真に多く、そこから並べて行くと、多くの風景写真や街角スナップはだいぶ微分値が低くなっていく。その低さを補い証拠を突きつけるのが定点観測かもしれない。
 さらに、ニューカラー派以降の写真のベクトルは、どれだけこの微分値が小さい、即ち決定的瞬間から遠い「決定的非瞬間」みたいなところに目を向けられるか?の争い(争い・・・という単語だと経済活動的視点かもしれないですね)になっている。。。
 などと考えていたのだが、何気なく操作してチェックした本ブログの数日前の日記に、ひらちゃんがコメントを寄せてくださっているのに気が付いたので、たぶんそれを機会に、変化の時間微分値とフォトジェニックであることの関係を考えるのをやめて、他の方のいつも楽しみにしている更新がないものか?とブックマークを順繰りにめぐったりした。

 一段落してから、やっぱり昨日のブックフェアで、本城直季氏と渡辺一城氏と牧野智晃氏と栗原論氏、4名の若い写真家の方が一人一冊、24ページの小さな写真集を、同じデザインの表紙を持つシリーズとして作った、その四冊セットの本城氏のプリント付きスペシャルバージョンを買った。その四冊の写真集を順にめくってみる。昨日、会場でお話した方がどなただったのか、名前をお聞きせずにいたことが残念。http://shinogo45.com/
 本城氏の写真集は、それぞれのページに並ぶ写真の大きさや中身は、被写体分類的には不統一でばらばらだが(言い方が判り難いですね・・・山の写真集とか花の写真集みたいな括りではない、という意味です)見開き左右を断ち落としで見せているページをのぞき、あとは全ての写真の上辺の高さがそろえてある。そのことによって、ページが動画を見るように、横にすべっていく感じが自然と湧いてくるのだった。それがタイトルの2001〜2011とあいまって、独特な感じでよかった。
 渡辺氏の養豚場の写真集は養豚場のルポルタージュのようにも見えるが、それが人の視点からでなく、豚の視点からのルポみたいであって、新しい感じがする。
 牧野氏は小さな子供の描いた絵の接写と、馬や花(藤)や室内のスナップが交互に出てくる。読み解き難い気がするが、冒頭の日がさしているところだけが明るい室内の写真(日が当たっているところには本が置かれている)を眺めているうちに、これは、痕跡あるいは「祭りの後」の写真なのかな、と思いついた。痕跡を示すことで、見たものはより様々なことを想起するかもしれない。
 栗原氏の写真集はアフリカのスナップだが、これが結構えぐっている感じがする。何をえぐっているのかはっきり言えないのだが、結果として怖さみたいなことが滲む。
 さすがだなあ。感心し、いい買い物をしたと満足する。

 以上、昨日のブックフェアで買ったいくつかの本の感想。

 昼頃に妻と二人でみなとみらいにブラブラと明確な目的はないが買い物に出かける(上の写真)。いま平日のサラリーマン時間に履いているゴアテックスの靴が重くて、もう二年くらいずっと使っているのに、帰宅すると足が疲れている。そんな状態のまま二年も履いているのだが、まあ「強いて言えば」程度のことかもしれないが。それでリーガルショップに行ったらバーゲン品の中にウォーキングシューズのソールを持ちながら一見はビジネスシューズという(本当のオシャレな方から見ればこういうのはダサいのだろうな)靴があったので購入する。


壁に貼られて色あせた写真。