雨の京都


 南海海上にある大きな台風が前線を刺激しているらしく、今日は朝から雨が降っている。幸いに、雨脚は弱く、ふと雨がやむ時もある。午前中、京都府立植物園に行く。雨だし、午前だし、平日だし、ほとんど客がいない。この旅行にはフルサイズ(撮像素子のサイズが一番一般的だったフイルムのサイズと同じサイズ)のデジタル一眼レフと50㎜F1.2の明るいレンズを借りてきた。

 画面の全部が植物で一杯で、その中の中央付近の一部分だけにピントが来ている被写界深度の浅い写真を撮りたい、という思いがこの春からずっとある。では花の写真のお作法にのっとって、流行りの?ボケ味を駆使した写真を撮りたいのかと言うとそんなわけなくて、作法には迎合していない、しかしボケ味を生かした写真は撮れないものだろうか?撮ってみたいものだ、などと思っているのだった。
 しかし、実はそこにも理由があって、ニューカラー派の有名写真家の写真集や、中判や大判カメラを使った最近の(いや、既に最近ですらないのか)日本の若い(いや、既に若くもないのか)カメラマンの作品集などを見ていると、サロン写真みたいな旧態然とした決定的瞬間とぼけ味活用とは明らかに違う、でも、被写界深度は浅いアンチクライマックスな写真がある。もしくは、ある気がするんだよなあ。そして私はそういう写真を自分で撮りたいのだ、きっと。だから、お作法に習った写真は撮らないゾ!とか言っても、それは「最も標準となっているお作法」には倣わないぞ、という程度のもので、少しだけ新しいお作法には、しっかりとはまっているに違いない。なんていう分析は、撮影中にはいちいち考えたりはしないですよ。もちろん。

 何かに夢中になっているときに、その結果、何か身体の中で変化が起きて、至福に浸れるとか、感動に包まれることを、なんとかハイと言うのかしら。ランナーズハイとか、ライダーズハイとか、クライマーズハイもそうかな。ハイと定義すべき状態のときに脳内や体内でどういう現象が起きているのか、どういう物質が分泌されるのかは知らないが、だから本当にそう言うべき状態が起きているのか正しいところはわからないかが、経験的にはフォトグラファーズハイといってもいい感じのときがある。今日、出来上がりを妄想していた写真を撮るべく、そして目の前の光景はどうやらその妄想を叶えてくれそうで、だから京都植物園で私はそういうフォトグラファーズハイみたいな感じになっていて、撮影に夢中になれた。低木の間に続く小路で立ち止まって写真を撮っていたときには七つか八つ、脛を薮蚊食りしながらも。

 写真は、プリントかPCモニター上での鑑賞か、いずれにせよ、後日に撮った写真を見ることが前提の行為であることが一般的には共通理解されている。だから、例えば、フィルムをいれていないカメラで空シャッターを切ることを、写真を撮る行為とは言えないはずだ。しかし、勘違いやミスで、フィルムが入っていないのに入っていると思いこんでいるときの撮影行為は、少なくとも勘違いが明らかになるまで、写真行為と言えそうだ。そして、気分が寛大なときには、勘違い(=失敗)が明らかになっても、実は空シャッターにすぎなかったと今はもうわかってしまった撮影行為だけでも、意外にも満足感を感じることが出来た経験がある。そんなことはないだろうと思う人もいるだろうな。私自身も、写真を沢山撮って来たあとに、実はフィルムの装填ミスで写真は一枚も撮れていませんでした、なんてことは残念で悔しくて二度とやりたくない。デジタルでは、まぁ、そんな失敗はないだろうから、いいけど。
 そう思うが、でも、もう十年も前だろうか、自転車で江の島に行き、カメラはコンタックスTにTMax400を入れていたつもりでいて何枚か写真を撮ったのだが、いくら枚数を重ねてもフイルムが終わらずに、おかしいなあと思って確認したら、ちゃんとフイルムが装填されていなかった、ということがあったのだが、この時に、もちろんのこと悔しい思いをしたのだろうが、その一方で、それでも私は写真を撮ったのだ、みたいな感覚でいることができた。あのときだけだったのかもしれない、あの充足感は。一体なにが根拠にあった感情なのか。

 これを書いていて、今思い浮かんだことがふたつあった。一つは子供の「ごっこ遊び」で、おもちゃのピストルや、最近では、おもちゃの携帯電話で、子供たちは夢中になって遊んでいて、大人からみれば、本来のピストルや携帯電話の機能を果たせないから所詮は「ごっこ遊び」にすぎず、だからそんなのは幼稚なことだと感じたりするが、そんな風な幼稚と片づける断定は、大人の視点からの解釈かもしれない。子供にとっては、大人の評価視点での『おもちゃの』という形容詞は意味をなさなくて、ピストルが撃つことを、携帯電話が誰かとコミュニケーションすることを、目的にしていなければそれはおもちゃではないかもしれない。だから『おもちゃの』と決めつけていては間違えることもあるかも。
 もう一つは「積ん読」のことで、沢山の未読の本の山を前にして、読書家はその内にこれらの本を必ず読むのだから、本の塔には将来の読書の約束があるのだ、と言い繕う。しかし本当のところ、あなたはこの本を全部読むのか?と、問われれば、中には読まずに終わる本が出てくることを、本当は知ってるのだ。ときには塔のほとんどをもう読まないと知ってるのかもしれない。
 なのにそこにある本を捨てないし片付けないのは、その本に「読まれる」ということとは違う別の目的を与えているのかもしれない。
 まぁ、こんな「ごっこ遊び」とか「積ん読」が、画像を残さない記録を忘れたカメラ、フィルムを装填していないカメラと、同じって訳ではないけど、まったく違うわけでもないような気がする。きっと江の島でフィルムの入っていないカメラで写真を撮っていたときの私は、撮った写真のプリントを得ることや、モニターで鑑賞することよりも、撮る行為に満足を感じていた・・・のかな?
 ・・・いや、しかしなぁ・・・こういう風に、書きながら分析してはみたものの、そんなに簡単に、撮影結果をあきらめられるだろうか?自分でもあの江の島のときのあきらめの良さがどうしてそうだったか、今はわからない。

 さて、植物園で、フォトグラファーズハイみたく高揚しながら写真を撮ったのだが、その結果は、妄想していたような、満足のできる写真は撮れなかったのである。したがって、結果伴わないということでいえば、デジタル画像データはちゃんと残っているけれど、それは結局は、フィルム装填ミスのカメラで写真を撮ったようなことだったとも言えるかもしれない。気に入る写真はなかったけれど、写真を撮ることに夢中になれたから、もちろんこれはたいへんに意味のある写真行為だったのに違いない。一応、一枚だけ上に植物園の写真を貼っておきます。

 昼前に、植物園を出る。地下鉄北山駅から、烏丸御池へ。以前に一度だけ行ったことのあるベトナム料理の店で、鶏肉のフォーのランチ。三条通り。同時代ギャラリーをのぞく。寺町と新京極を歩く若い人々をスナップする。こういうときは、もちろんF1.2なになどセットせず、ISO感度もあげてプログラムモードに変える。
 昨晩やっていなかったエレファントファクトリーへ。ドアを開けると、ニール・ヤングのライブ盤が耳に飛び込んできて心地よい。座ったカウンター席には、数か月前に亡くなった永井宏さんの主催していたウインドチャームブックスの本が並んでいる。それを順に手にしてぺらぺらとめくっていたら、永井さんのエッセイの冒頭にニール・ヤングのことが書いてあった。ちょっとした偶然が楽しい。

 相変わらず雨は降ったりやんだり。午後7時過ぎにTと待ち合わせてどこかへ夕食を食べに行くことにしているが、それまでの時間をどうつぶそうか?待ち合わせは百万遍なので、そっちの方に行っておこうか。そこでカフェのハシゴになってしまうが、進々堂京大前店へ。さっきコーヒーを飲んだばかりなので、ホットドッグとトマトジュースを注文したがホットドッグはもうないとのこと。そこでトマトジュースもやめにしてホットココアを飲む。雨脚がものすごく強くなるときがある。
 ヘミングウェイの「雨の中の猫」を読んだりする。


これは先斗町。子供のころに、ぽんとちょう、という場所があることは、♪富士の高嶺に降る雪も、京都先斗町に降る雪も、雪に変わりがあるじゃなし、溶けて流れりゃみな同じ♪という歌で知っていた。これなんという曲なのだろう。