鎌倉の砂浜


 4時半に起きた。早起きだったこともあり、テレビを見たり新聞を読んだり、けっこう部屋で過ごしていたとは思うのだが、それでもバスと電車を乗り継いで鎌倉高校前から七里ヶ浜あたりの砂浜へ着いたらまだ9時半だった。あたまのなかに妄想していた光景では冬とはいえ暖かい砂浜に「それなりの密度で」人々が遊んでいるような場面だったのだが、まだ早くて、地元のサーファーが海に入っているほかは、あまり人がいない。だから想定していた写真にならない。最近思うのだが、想定通りに上手くそういう場面になっていて撮った写真なんかは本当はたいして面白くなくて、いざカメラを持って外に出たら、その瞬間から受け身になって、想定なんかしていなかった光景を視覚がとらえ、それをどんどんと吸収するようなフラットで欲のない撮影が良いに違いない。と、思ったのは、なかなかそういうことが出来ないからで、それも、年齢のせいもあるのか、以前よりますますその傾向が強くて、だから今日も人がいないから想定していた写真は撮れないところから、受け身になってひらりと視点を変更することが出来ず、なんだか渋面のままひたすら砂浜を歩いてしまった感じがする。こういうのダメですねえ。この「ダメ」の先には、必ず被写体が想定通り待っている「祭り」などを撮りに行く、そこに着くまではカメラさえ出さない、そんなことが状態化していくのではないかしら。
 上述のことと関係ありそうでなさそうな・・・感覚的にちょっと近いかもしれないと思って、書くのだけど、小説家でもミュージシャンでも、デビュー作に、言葉では説明のできないピュアな魅力があって、それはその後作にどんなに大作や問題作を作っても、デビュー作にだけに漂う独特のものだったりする。例えば、村上春樹でいえば「風の歌を聴け」だけに強く漂う、デビュー作の魅力ってあると感じる。
 それを維持するっていうのはどういうことなのか?欲のないフラットな思いで、ただ流れ出るままに書いたり演奏したりしたわけでもないだろうなあ。書いたり演奏したりするという具体的な創出行為には、その先のために動き出すってことだし。例えばなにかに「応募」してうまくいけばその道で生きていこうとか、そういうのは既に計算とか経済とか戦略とか想定とかと無縁ではない、どころか、そういう流れの本流の行為だろう。てなことを突き詰めていくと、結局何も生み出さず、ただ思索を重ねるだけの人が、それすなわち仙人であって、もっとも高貴である、なんてことなのか。
 何を書いているのか、何を言いたいのか、自分でもよくわからないです。以前、落語家の大家が「お客さんに面白く聴いてもらおう、笑っていただこう、などという欲があるうちは、本当の落語はできません」と言っていた。
 なんかこの文章は論旨が不明瞭でした。

 一般論に展開しようなどと無理せずに言えば、とにもかくにも、今日というかこの頃はろくな写真が撮れない感じで、それはフラットで欲のない受け身の視覚を、今日の(あるいは最近の)私は失っていたからなのかなあ、と思ったということであります。

 由比ヶ浜ラ・ジュルネが閉店し、店主のAさんがレシピを持って移籍(?)した、鎌倉駅近くのヴァカンスという店で、豆腐入りタイ風ピリ辛スープを食べて、体を温めてから帰宅。風が強く、雲も多い、晴れたり曇ったりのちょっと寒い日。

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くそっ!こんなありきたりのエンタテイメント小説に泣かされてたまるか!
とか、天邪鬼のように思いながら、結局はぐちゃぐちゃに泣いてしまった一冊
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