再びのアレック・ソス展

 朝起きて、カーテンを開けたら青空が見えた。なんとなくスマホを操作していたら、どこかのサイトに写真家アレック・ソスのインタビュー記事が載っていた。7/24に神奈川県立美術館葉山までアレック・ソス展を観に行ったが、10/10の最終日までにもう一回行きたかった。会場で一時間に一回づつ上映されている撮影行のドキュメント映画をもう一度見たかった。美術館までのあいだ、東に向かう海沿いの国道、午前は逆光で、大荒れの海に朝日が当たり、海面は泡立つように見えた。風で海水が霧になってあたりの空気に溶け込み、靄って見える。台風は九州のあたりにあるが、ここ数年一般用語になった感じの線状降水帯は関東にも注意報が出ている。だけど葉山の美術館までずっと晴れていた。

 ソスのドキュメント映画は一回見ただけでは気付けなかったところに気付くことが出来て良かった(もっと頭が柔軟で記憶力があったならば一回目ですべてわかり、私がいま二回目を見たときに理解した内容以上のことも気付き理解できるのかもしれないが、そんなことを考えてもしょうがない)。あらたにわかったことは、話の流れで、誰かに会って、何か会話をし、その会話からいままで気が付いていなかった新たなキーワードを浮かび上がらせ、キーワードを頼りに次の誰かに自分の行きたい場所やイメージを伝えて、そこから新たな情報を得て・・・という、いやそういうことの全体の漠然としたところは最初に観たときも気付いていたけれども、誰がどのキーワードを発して、ソスがどの言葉に反応し・・・そこからソスの中で仮想の物語や仮想の目的を作って行くこと、それが映画の中の翻訳された日本語訳の「運ばれる」なんだけど、運ばれてまた仮想と現実とのずれがフィードバックされる。そういうことが具体性を持って少しはっきりとわかった(気がした)。そういう仮定を経たうえで、彼の満足に至るのは思い描いていた理想を実践している人を見つけることで、その想像した理想を現実がもっと超えてしまう(そういうことに出会うのは至福だろう)と、どう写真に撮るかに至る前の感動があり、感動を写真に落とし込む作業には時間が必要だった。写真は被写体に向けてシャッターを押せば写るから、誰それの写真ぽい写真、なんちゃって誰それ写真、そういうのを一枚二枚撮る、あるいは撮れちゃう、ことってあって、そんなことは誰もしないけれど、誰かの写真集にそういうのを一枚混ぜておいても気が付かないと思うが、そんなのはどうでもよいつまらないことであって、能動的に企画想定されたプロジェクトを現実に移し替える力量が幸運も呼んで、作品が出来ている(決して一枚写真の話ではないです)。すべての写真作品がそうでないとダメだとは思わないけれど、だけどこの映画を観ているとその写真家の移し替えるための努力に対して、一流のスポーツ選手が試合で見せる完ぺきな演技や技を見るのと同じように、感服してしまう。

 写真展を観終わって帰ろうとすると土砂降りだった。車の中に傘を置いてきてしまった。ほんの20mほどを走ったが、それで身体の全面、着ていた服が絞ると水滴が出るほどに十分に濡れそぼってしまった。運転しながら乾かそうとエアコンの温度を暖房側にし、風量もマックスにした。美術館への往路は上記のように晴れていて、海が見たことのないほど泡立っていて、それを海の様子を見に来た人があちこちで眺めていた。国道の信号を渡ったところ、砂浜に降りて行く小路や階段があるところには必ずひとりかふたり人がいて海を見ていた。砂浜にもぽつぽつ人がいた。帰路は国道に水が出ている場所もあり、自家用車は盛大に水を両側に巻き上げながら走った。視界も悪く、一番土砂降りのところでは時速20キロくらいで走った。もう海を見に来ている人などいない。サーファーだけが砂浜や海の上に見えた。しかし土砂降りの領域を抜けると、また晴れている。あたりはさきほどまで大雨が降っていたばかりらしくどこもかしこも濡れそぼっていてキラキラ光っている。年に二度くらい行く茅ケ崎の美味しい大衆中華の店で、レバーとパプリカと茄子の甘辛炒め定食を食べてから昼ちょっと過ぎにはもう帰宅。

 明日の明け方から午前がいちばん雨が降るらしい。