1WALL公開審査見学感想


 写真は下の日記記事とは関係ありません

 リクルートが主催する公募展の(フォト部門)1wallのファイナリスト6による、プレゼンテーションとグランプリ決定公開審査会の見学に行ってきました。6時から9時半近くまで熱のこもった審査会となり見応えがありました。私はぎりぎりに入って、終了後はすぐに退場したため、ファイナリスト6によるグループ展と、それぞれのポートフォリオは見ないままです。プレゼンや質疑応答の時間に液晶プロジェクターいより投影されるグループ展の各自の展示画像を見ただけです。だからこれから書く「感想」はそういう条件のもとでのことなので片手落ちかもしれません。
 どうも突出した作品がないなかで、既視感の伴う範囲にありながらもレベルの高さや、既存とはいえその中で個人の特徴がきらりと光っていること、といった作家を推すべきなのか、それとも、未完成で未消化ではあるものの心意気として新しいものを生み出そうという意識が強い作家を推すべきなのか、その迷いが多くの審査委員を困惑させていた感じで、それが無責任な聴衆としては面白いのでした。その一方の誰かが、別の一方を圧倒的に駆逐するほどの力がない、言い換えるとがっぷり四つのまま土俵の真ん中で動かなくなってしまった取組のようでした。既視感や既存に寄り添う方には、最終的にグランプリを受賞した方のほか3名がいて、新しいものを生み出そうともがいている対局の1名がいて、その途中に写真に至る行為そのものが作品ともいえてしまうようなタトゥーにまつわる方がいて、知人のN村くんの「かつて工場だった土地に再開発された新しい都市の表層」のシリーズがあるように感じて聞いていました。
 最終的に鈴木理策さんだけが「新しいもの」の局に近い二人を推し、他の4人が既視感の中でも個人的な死にまつわる物語を背負った少女に流れた時間という、わかりやすい背景を押し出した点に特徴をうたった方を推しました。たぶん1Wallの本来趣旨からすると、鈴木さんが推した方が、もっと明瞭で納得できる「新しい」視点を説明し切れれば文句なしだったのでしょうが、彼の中の混沌は質問に対する答えに聞き手を納得させる筋のしっかりした論拠が分かりにくかったというのが残念でした。小生意気で青臭く見える青年でも、それでも新しいことへのトライこそ選出理由にすべきと思うか、そのバランスの中でより上手く、わかりやすく、出来の良いものを選ぶか、の葛藤の中で、最後まで鈴木さんが『みなさんの多数意見であればグランプリを彼女にすることに反対はしないが、あくまで私は首を縦には振らないよ』という姿勢を見せたことは痛快でもありました。
 台湾出身の方の作品が、ポートフォリオが絶賛されているのに対して、展示が失敗だと言われていました。ポートフォリオが黒をバックに混沌や暗示や迷走などといったものから見る者の考えを誘っていたのに、展示ではほのぼのとした写真をメインに据えたことで、一見の爽やかさはあってもじっと見続けたいというパワーを失ってしまった、といった評価があって、だからこんどまたガーディアンガーデンに行って、その高評価だったポートフォリオをちゃんと見てみたいと思いました。
 国立近代美術館の増田さんがとある方に、(事前によく考えて練られた写真論やコンセプトといった)手持ちの札があっても、実際に展示をしてみると予想だにしなかったことが発生して、それなのにそれを手持ちの札で埋め尽くそうとしているのが残念というようなことを言っていました。これはなんだかとても日本的かもしれないですが、とても共感しました。
 若い人はあせってしまっている、それが残念、といった鈴木さんの言葉が印象的でした。あせりと評されるか若いゆえに可能なスピードととらえられるかは微妙なところでしょう。
 AKAAKAの姫野さんは、結果として既存の写真の保守派のように見えました。やはり写真集にして面白いか、あるいはもしかしたら「写真集にしたら売れるか?」的な見方があるのかな?姫野さんの声はとても素敵ですね。
 どうもファイナリスト6はさて置き、選者の5人(秋山伸、土田ヒロミ、姫野希美、増田玲、鈴木理策)がどう考えどう発言するかの方を聞きながら彼等ひとりひとりの感じていることや価値基準を推測することがとても面白いのでした。そんな中で大御所の土田さんの博識に基づく(のかな?)指摘は小気味よくありました。
 グランプリ受賞者の仲田さんという方は、一年後の個展プランが魅力的だったところが、新しい何かへの脱皮を予感させるという点で、まだ見ぬ個展への期待票といった得点がこれだけ審査が拮抗した中の最後の決めてとなったようでした。それが作家のプレッシャーにならぬように。よい個展につながることを期待したいです。