暖かく楽しい夜

12日の土曜日。代官山のなんとか言う(施設名を忘れてしまった)場所で開催中の写真新世紀入賞作展示と昨年のグランプリの須藤さんの個展を見て、さらに同じ施設内のホールで今年のグランプリ選出の公開審査会にも行ってきた。今年の審査員の方々は
荒木 夏実氏(森美術館キュレーター)
さわ ひらき氏(美術家)
澤田 知子氏(アーティスト)
清水 穣氏(写真評論家)
野口 里佳氏(写真家)
フリッツ・ヒールスベルフ氏(オランダ写真美術館キュレーター)
審査会の前にグランプリ候補となる優秀賞の作品を見たわけだが、この作品はあの審査員の選出だろう、と言う関連がよくわかって面白かった。
三田 健志氏の「等高線を登る」は清水氏の選出。ネット上に公開されているフリー素材の風景写真を場所を何らかのキーワードで検索、そこから選び出してプリントした写真を画像を意識しつつもラフに折り目を付けてクシャクシャに、と言っても丸めるわけではなく、そう地図模型のような凹凸を付ける。どうやら第一次審査の応募作はこの段階のものを出していたようだったが、この最終選考ではこの折り目を付けたプリントをさらに接写した写真の写真を出すとともに、その集めた写真の場所は、ある冒険家の(実在の冒険家なのか?仮想なのか?は不明)訪ねた場所であるとのこと。この冒険家は世界各地を冒険しながら土地土地での採取物を研究機関に送って生計を立てる。事故にあって半身不随になるが協力者によって冒険を代行し、世界各地の土地の土を使い、その土地の山肌を再現するような陶器作品を制作したと言う物語に沿って、陶器作品や陶器作品を撮ったとされる写真が合わせて示された。
この展示は歴史ノンフィクションの秘められた物語を見ているようで実にワクワクする。
しかし今年、東京現代美術館で開催された他人の時間展でのmamoru氏の作品を思い出してしまう。既視な感じがあるのだった。
mamoru氏の作品は美術館のblogによると「作品《THE WAY I HEAR, B.S.LYMAN 第五章 協想のためのポリフォニー》は、
明治時代に行われた北海道開拓の歴史が私たちに及ぼす影響や繋がりを音、テキスト、映像などのメディアを複合的に用いて表現しています。」とある。この展示を、少なくとも私は思い出してしまった。最終審査会で清水さんは、ちょっと懲りすぎて完璧にし過ぎ、一次審査のときのほうが面白かった、と講評。私は上記のような既視感があったものの、いちばん面白かった。
野口里佳選の岸 啓介『HAKKO×Rebirth』は野口里佳がこの公募イベントでグランプリを受賞した「潜る人」に、コンセプトや動機は全く違うものの、そう言う言葉の説明とは違うところで、なんだか写真の上がりとしてのテイストが似ている感じを受けた。
グランプリを受賞した迫 鉄平 『Made of Stone』(動画作品)
(さわ ひらき 選)は、選出した さわ氏が、この作品を見てからしばらく自分の作品が作れなくなったと言うほど。スルメのような尾を引く面白さ。いい加減さと緻密さが入り交じった。
松本 卓也 『Tangent Point』
(フリッツ・ヒールスベルフ 選)
が従前の写真価値に照らし合わせるとよく出来て美しいプリントの集まりで好感が持てた。
この晩は暖かく、12月とは思えない。会場でたまたま会った知人と、蔦や書店や北村写真機店を見て歩く。
グランプリ選出会で、とつとつと自分のことを話した若い人達の熱意や正直さや真面目さに、ときに(申し訳ないが)稚拙だが一生懸命な話に、酔ったようないい気分の夜だった。若い人達、ありがとう。

12月25日、早朝に追記
上の文章には、三田作品がmamoru作品を思い出させたことを、マイナスな点とする前提で感想を書いたのだが、今朝に思っていたのは、現代美術の傾向として、こう言うトータルな物語に沿って(あるいは物語を仮定して)様々な手法の作品を記録や証拠物件のように集めて「美術館のなかに博物館を見せる」ような展示手法は従前から公知でもはや当たり前で、王道の手法のひとつとして確立されているのかもしれないぞ、と思った。現代美術の、などと書いたけど、既に古典的な方法かもしれないぞ。
そう考えると私がmamoru作品を引き合いに出したこと自体が稚拙で、なにしろそう言う美術動向や知っているべき代表作を、全体を俯瞰した上で知ることもないまま、たまたま出会った二つの作品を「似ている」と感じたことを表明しただけになる。もしかするとお笑い草なことかもしれない。こう思った次第。