読書の場所


 朝8時頃のテレビの天気予報では、関東は全域で晴れ、ということになっていたが、茅ヶ崎の空は雲が一面を覆っていて陽が差す気配もない。それで出かけようという気が起きない。ここ二週間ほど遊んでいるWebのフォトブックサービスを使って製作中の写真集のタイトル、写真を見たあなたの心の中でどういう想いが起きたのかなんか知らない(けれど、何かの想いが、自分の写真を見てくれたあなたの心で起こればいいな)ということを考えて、仮に「I don't know your poems」ということにしていたが、こんなの全然ダメじゃんって思って、新しいタイトルを考える。窓の外のベランダには相変わらず烏がやってくる。夏は窓を開けて寝ているから、烏が来てベランダの手すりやその向こうの屋根の縁やらを、トントンと跳ねて動くと、そのトントンという音で目が覚めることがあったが、窓を閉めて寝るようになってからトントンが聞こえないので烏が来ているのが判りにくくなった。今日は音ではなく、烏が来ているのを目で見つけた。捜したってことじゃなくて、ベッドに座って工藤静香が絵画についてインタビューに答えているテレビを見ていたら烏が見えた。それで写真集のタイトルをBlackbirdにしようかと思った。ブラックバードっていうのはツグミのことで烏ではないけれど、でも烏は黒いから「黒い鳥」を英語にするとツグミではないけどBlackbirdになって、でも写真集のタイトルは烏でもツグミでもそんなことではなくて、使っている写真の一枚に黒い影になっているたぶんカモメの写真があるから、烏を見たら、その写真もあることだしそういうタイトルがいいかも!って思ったのだ。Blackbirdと言えばビートルズホワイトアルバムに収録されているアコースティックな小品のタイトルで(もしかしたら伊坂幸太郎の小説のタイトルにもなっていたかも)、じゃあその曲の歌詞はどういう意味なのかを調べようと思い立ち、ご飯小と梅干で朝ごはんを食べて血圧の薬を飲んでから、パソコンを立ち上げた。
 ところで、血圧はこのまえ病院に行ったら170-100で、その前日の飲み会で塩辛いもつ鍋のスープを何回も飲んだのもいけなかったのかもしれない。自分でときどき測っているとだいたい140-90といったあたりだと思っていたのだが。170-100なんて数字が出てしまったので、七月頃から免除になっていた高血圧の薬が、別の種類でまた処方された。今度の薬は穏やかに効く程度の弱い薬ということだが、薬に敏感な体質なのか、飲み始めてすぐに血圧は下がって、今朝は118-78だった。(前の薬は成人男性の一般容量の1/4を飲んだだけで100-60とかになってしまうのだった)
 Blackbirdの歌詞は黒人女性の差別撤回のような主張が込めてあると判った。写真集のタイトルに使うのは向かないなと思ってやめにして、ヤフーの和英や英和辞書を使っていろいろと考えてみたがなかなか難しい。
 9時半になって王様のブランチが始まって、最初の本のコーナーだけを見た。中村文則の短編集が紹介されていて読みたくなった。
 11時過ぎになって雲に切れ間が見えてきて、ときどき陽が差すようになったので、出かけようという気持ちが強まる。

 何か月か前に買っておいた暮らしの手帳別冊のムック本「徒歩旅行」を昨日、電車の中で初めて読んだ。買った直後はぺらぺらとページをめくって、写真を眺めて、そのうち読もうと思ったまま本の山に埋もれてしまっていたのだが、最近ちょっと探し物をしているときに一緒に「発掘」された。載っている旅行先のうち、鎌倉以外に、伊東と木更津なら日帰り可能な場所で、昨日その伊東と木更津を読んでみて、まんまと策略にはまって行ってみたくなっているのだが、もう今からでは遅い。
 先々週にも行った葉山の小磯(小磯の鼻、というらしい)、海に突き出た小さな小さな岬の上が芝生になっている場所、で芝生に寝転がったり座ったりしつつ読書をしよう、というロマンチック(すぎる)案を思いついた。なにしろ本が溜まりに溜まっている。それで焦っているわけではなくて、読むのが楽しみなので、読む時間を作りたい、ということ。
 昨日まで一週間くらいかけて「オリーヴ・キタリッジの生活」を読んだ。次には堀江敏幸の「燃焼のための習作」を読み始めた。いつも寝る前に読むのだが、半分眠りながら字面を追うだけになっていて、翌日になると、また最初から読む。すると字面だけでも追いかけた証に、ところどころだけ覚えていて、でもほとんどは忘れている。そんな繰り返しでもう三回くらい最初から読み直している。三回とも二十ページ前後で眠りに入っている。この本は河岸忘日抄の姉妹編のようだ。
 この本には赤い紙をブックカバーとして付けてある。その赤い紙はSOGOの包装紙。しばらくまえにI君に「レンズ汎神論」という飯田鉄のエッセイを貸した。貸したときには何もカバーを付けていなかったが、返って来たときにその赤い包装紙がカバーとして付いたまま戻ってきた。それを今度は私が読む「燃焼のための習作」に付けた。
 緑の芝生と青い海や空と、赤い本の取り合わせはなかなかいいんじゃないか、などと思うとうきうきした。単純明快。

 逗子の駅に着いて少し歩いたらパン屋のブレドールの駅前店があったので、そこでイチヂクパンとカレーパンを買った。それを持ってバスに乗り、葉山公園まで行った。葉山公園で温かい缶コーヒーを自販機で買った。小磯の鼻の方へカメラをぶらさげて歩いてくと、おまわりさんが必ずやってきて、にこにこ笑顔で「こんにちは」と声を掛けられる。笑顔を浮かべながら人物をチェックされているのだろう。別に不快じゃないのでこちらも笑顔で「こんにちは」と応える。
 持ってきたレジャーシートを座布団くらいの大きさに折りたたんだまま芝生の上に置いてそこに座って、珈琲を飲みながら二つのパンを食べた。イチヂクの方が特に美味しい。子供のころに住んでいた家の庭にはイチヂクの木があって、シロスジカミキリとキカミキリが沢山いた。その木にも実がなっていたのかな。その木でできたイチヂクを食べた覚えがまったくない。小さいころにイチヂクを食べたことなんてあまりなかったと思うんだよな、家に木があったのに。だから自分がイチヂクが好きなのか嫌いなのかという仕分けができていないまま大人になっていた。イチヂクはパンに入っているのを食べることが圧倒的に多い。十年くらい前からイチヂクパンを頻繁に見かけるようになって、食べるようになって、いまは自分はイチヂクは好きである。
 犬を連れた人がやってくる。それと磯浜に遊びに来る家族連れ。おばちゃん三人組はタッパーに何かを詰めてきてそれを食べている。若い女性一人、黒いロングブーツにブルージーンズ。保冷バックからビールを取り出し飲み干す。仰向けで大の字で眠る大男もいる。波の寄せる音を聞きながら赤いカバーの本を読み始める。また最初から。ゆっくりと読む。ときどき顔をあげて風景を見渡す。穏やかな海面に小さな魚が飛び跳ねた。五才くらいの子供が潮だまりで足を滑らせてずぶ濡れになる。でも泣かないで我慢して、父親が濡れた服を脱がせると着ていたジャケットを子供に着せる。子供は泣かないけれど父親に抱いてもらい、その肩に顔を埋める。二人にはちょっとした災難だが、見ている方は微笑ましく感じる。
 一時間ほど波の音を聞きながら本を読み、次の一時間ほどはiPODでReturn to Foreeverを選んで聞きながら読み進む。音量は上げない。音楽の向こうに波の音が聞こえる程度にする。
 二時間読書をしたが、ページ数は四十ページくらいしか進んでいない。きょろきょろと風景を見て、途中からついに雲が切れて、どうなったというのかその雲は、ふと気づくとどこかになくなっていて、さんさんと日が照ってきた。すでに太陽は傾いていて、目の前が逆光の海になる。そういう風景をぼんやり見ていた時間が思いのほか長かったのだろう。
 チック・コリアの上記のアルバムが終わったのを機にレジャーシートを片づけて、砂浜を北へ歩き出す。今度はハービー・ハンコックの「処女航海」にしたが、季節がちょっとずれた感あり。
 どんどんと日が傾きあたりの色が変わっていく。上の写真はだいぶんと黄色い時間になった。

 カフェDay's386(数字が合っているかな?自信なし)に寄って珈琲を飲む。それからバスに乗って逗子に戻る。

 とある古書店に立ち寄ったら、1970年に出た浅井慎平の写真集が525円で出ていて仰天してしまう。冷静を装って購入。帰宅後この本の平均価格を調べたら買った値段の20〜30倍くらいだった。ということよりも、ずっと見たかった写真集なので初めて全頁を見ることができてすごくうれしい。

 もしかしたら後日になって、今日の読書の時間は贅沢な時間としてずっと覚えているかもしれないな。

 写真はまたぞろど真ん中に水平線があって標準作法的にはNGでしょうか。

燃焼のための習作

燃焼のための習作