浜降祭


 朝、4時半に家を出て海まで歩いて行く。浜降祭を見物に。途中、ぱらぱらと雨が降る。傘を持たずに出たので心配になったが、それ以上の降りにはならず大丈夫だった。ついでに言えば、途中でお腹がごろごろしてきたが、これも腹痛などには至らずよかった。
 一昨年だったかその前の年だったか、快晴の浜降祭の年に、フォトグラファーズ・ハイなんて単語がもしあるとすればまさにそういう感じで、大勢の人たちの間を右に左に通り抜けながら、あっと言う間に600枚以上の写真を撮った。そういうことを覚えているから、またそのときみたいに気持ちよく写真を「撮りまくれる」のではないかな、と期待して出かけたが、雨模様の曇り空のせいなのか、天気とは関係のない自分の心情の違いのせいなのか、浜に付いてもどうも気分がぱっとしない。快晴の日に写真を撮りたい、という比較的強い希望は一体どういう原因で私に生じるのか?出来上がった写真は必ずしも晴れている方が気に入るというわけでもないのに。上の写真なんかは、曇っていたから伸ばした手に持たれたコンパクトデジタルカメラスマートフォンの液晶画面に写っている画像までが、写真に写っている。もし晴れていたらこういう写真は撮れなくて、そのかわり未知だから具体性はないが、今日は撮れなかった別の写真が撮れているはずである。

 昨日だったか今日だったかの朝日新聞の朝刊の別刷りに、アニメの宮崎駿監督の新作に関するインタビューが出ていた。新作映画では荒井由実の「飛行機雲」が使われているらしいのだが、これを使うに当たっては、アナログレコードをかけて、針を落としたときの音やスクラッチノイズも含めて録音したものを使ったと書いてあった。なぜそうしたのかも書いてあったのだろうが、ななめ読みしただけで忘れてしまったな。

 アナログレコードを新品で手に入れて、大事に聞いていたはずなのにいつのまにか溝のどこかが傷付いて、ある曲のあるフレーズに来ると大きなスクラッチノイズが入ったり、ときには針が飛ぶようになったりしてしまう。そのときはすごくがっかりだが、これはまるで歯の治療記録から個人を特定できるみたいに、自分だけのアナログレコードの「証」が出来るということだとも言えまいか。

 1977年ころに女の子からもらった石川セリのLPは「一人芝居」という曲の途中で針が飛ぶようになった。そんなことを思い出しました。


 こういう祭のクライマックスとは程遠い瞬間を写真に撮りたいと言う思いでクライマックスを待ちわびる祭の写真を撮りに行く、そういう天邪鬼。