季節が巡り


 季節が巡り、なんてタイトルを書くと、なにかセンチメンタルなことでも書くのか!?と思うかもしれないけれど、牡蠣のことです。そして毎年毎年、このブログにこの季節になると同じことを書いているような気がする、いちいち読み返していないけれど。すなわち、牡蠣が出回ると、猫にまたたび(って、具体的に猫にまたたびを差し出すとどうなるのか知らない。第一またたびってなんだ?)じゃないけれど、岬たくに牡蠣、ってなもんで、出張や外出中に昼食や夕食を外で食べる必要が来ると、今の季節は、基本的にまず牡蠣を食べたい。
 先月だったかな、渋谷でシュタイデルの映画を見たあとに、数年前までギャラリー・ナダールが入っていたビルのある交差点の方に歩いて行った途中にある「凛」という蕎麦やに昼食のために入ったとき、壁に季節メニューとして掲げられている「牡蠣とほうれん草の蕎麦」というのを読んで、いよいよもう牡蠣が出てきたのか!と嬉しくなり早速注文した。この牡蠣は、当たり前だけど牡蠣の味と香りがたっぷりで、誠に(ほんとうに「まことに」という感じで)美味しかった。
 それを皮切りに、『別に今の季節じゃなくても通年提供可能だけど、ほかの季節に出してもしらけちゃうからぼちぼち出すことにしますわ』的なファストフード店の冷凍と思われる牡蠣フライやらなにやら、なんだか自分でも自分がアホじゃないかと思うくらいの牡蠣ばかりである。牡蠣フライというのは中身の牡蠣が貧弱だったり、ソース(ウスターが好きだがタルタルソースも悪くない)をかけすぎてしまうと、認識しているから牡蠣フライを食べていると判っているが、よくよく味覚情報のみを確認すると、ときにはフライ(ころも)とソースの味ばかりで、もし目を閉じてこいつを口に入れられて「なーんだ?」と問われたら牡蠣とは言い当てられないのではないか!?と思うような場合もある。そもそも外食で牡蠣を食べようとすると、ほとんどの場合は牡蠣フライになってしまうが、この年になってしょっちゅうフライ物を食べるのは胃がへこたれるし、すなわち身体にはよくない。
 しかし、そこは一つなんとか頑張っての牡蠣なのであります。ファストフードチェーン店ではてんぷらの天やの牡蠣の天丼が今年も始まっていて、これはフライよりもずっと牡蠣の味が「来る」から大好きだ。牡蠣2+いんげん+海老+烏賊+まいたけ、の天丼でたしか800円強だった。これをご飯小盛にして、牡蠣一個追加をして食べたりする。最初に牡蠣を一つたべるとジューシーだが、食べ終わる最後に三つ目を食べたら、もう少し固まっていてジューシーさに欠けてきている。揚げたてを食べたいところだ。そもそも本当は海老と烏賊と野菜系は牡蠣に交換して欲しい。牡蠣だけ天丼(牡蠣五個載せ)なんてのがあるともっと嬉しい。茅ヶ崎のとあるバス通り沿いにひっそりとあるトンカツSの牡蠣フライは大振りの広島牡蠣5個の定食、もちろんキャベツお代わり自由で素晴らしい。
 Sの大振り牡蠣は素晴らしいが、私の記憶をたどると、1989年くらいにカメラを持って神田あたりで、当時流行していた「近代建築探偵」の本を片手に、東洋キネマビルなんかの建物を見て回っていた冬に、ちょっとガード下のような交差点のあるあたり(いかにも神田駅っぽいですね、こう書いて行くと)に奥に長い、でもカウンターだけってわけでもない定食屋で食べた牡蠣フライのことがすぐ思い出される。小ぶりの牡蠣がたくさん、アルミの楕円形のそっけない平皿にキャベツと一緒に載っている。それにウスターソースをかけて食べる。その日の温度や体調や精神状況にもよったのだろうが、こんなにうまい牡蠣フライは食べたことがない、と思ったほどだった。そんな記憶があるから、大粒もいいけど、思い出を辿るような、ノスタリジーからすると、牡蠣フライは小ぶりを嗜好してしまう。そうなると、横浜は石川町駅近くの老舗の洋食屋「美松」の牡蠣フライが近い。「美松」の牡蠣フライはあまりに数が多いので、ちょっとこれから試合に臨むぞ、といった気分になる。
 思い出というのは「ガード下の定食屋で食べた牡蠣フライが美味しかった」というだけで完結していなくて、上記のようなその店のあった風景のほかにも、東洋キネマの写真が当時使っていたキヤノンF1のシャッター幕にピンホールが出来て光線がもれてしまった駒があったこととか、等々、この神田散歩の帰りに当時住んでいた横浜市緑区のマンションに帰る途中日産の販売店でパオという車を見たこととか、もう時間を経て変化変性しているにしているのだろうが、いろんなことが層状になってできているものだ。
 そういえば、もう二十五年くらいまえに妻の妹の家で、料理好きの義理の弟が揚げる牡蠣を、出来たところからどんどん食べていた冬の休日があったな。いずれにせよ、牡蠣、からいろんな思い出がずるずると多発する。
 本当はオイスター・ワイン・バーで、いろんな牡蠣を生で食べたいのだが、飲めないこともありなかなかそういう機会は作れない。

 ふと書店で手に取って買った結果、再び増加傾向に転じている積読タワーの上部(買ったばかり)から岩波文庫泉鏡花著「化鳥・三尺角」を読んでいるので、そういうことが橋を渡っているときにふと下を見て、川の流れの際で揺れている植物にカメラを向けてしまう遠因かもしれない。なにか白いふわふわしたものがひっそりと通っているのではないか、とか思いながら。